天霧夢矢比売(あまきりのいめやひめ)

「重たそうだね」
 友雅は言った。
「?」
 きょとんと星を宿した大きな瞳が、無防備に己を見上げる。
 動いた拍子に艶々とした長い髪が肩からサラリと零れる。
 それに合わせて、黄金の冠の飾りが甲高い音を奏でた。
「いや、何……」
 友雅は微笑みながら、扇を片手で開く。
「何となく、そう思っただけだよ」
 友雅は、庭の満開の桜に目を遣る。
 ハラハラ舞う薄紅の花弁が、外に風があることを教える。
 麗らかな春だ。
 自分の心とは、正反対だ。
 それがおかしくて、友雅は口元に笑みを刷く。
「いえ、重たくはありません。
 お父様からいただいたものですから。
 星の一族として、その役目を果たせるように、と」
 この時代、親子と言っても、親密ではない。
 子は母の元で育つが故、男親とは娘は語ることすら稀である。
 よほど冠をもらったことが、気にかけてもらえたことが、嬉しかったのだろう。
 藤姫の声は、華やいでいた。
 友雅は、手にしていた扇でゆったりと風を起こす。
 自慢の巻き毛が重たそうに風をはらんで揺れた。
「妬けるね」
 微かに笑う。


 小さな肩には、重たそうだ。
 その『星の一族』としての……宿命が。



 時は、底冷えするような風が吹きつける季節に移っていた。
 久方ぶりにその粋人は、やってきた。
 何事もなかったかのように。
 今までの疎遠ぶりは、夢か幻だったのかのように。
 その公達は慣れた仕草で、御簾をくぐる。
 秋の除目で位階は上がり、中将となっている。
 当代切っての風流人、左近衛府中将・橘友雅。
 硬い白と柔らかな白を合わせて、氷の重ねをまとっていた。
 束帯ではなく、直衣姿。
「お久しぶりですわね」
 藤姫は自分の声がとげとげしくなるのを感じた。
 今宵はどちらの女性に、御用がおありですか?
 そう言いそうになった。
 藤姫は不要なことを言わないようにするため、自分の口を引き結んだ。
「言い訳ぐらいは聞いてくれるのだろう?」
 几帳越しに薫る侍従の香。
 もう、秋は通り過ぎたと言うのに、秋風の香り。
 神子が天にお帰りになられてから、寂しく過ごした年月。
 目の前の薄情な男は、来てくれなかった。
 秋には来てくれなかったというのに。
 それなのに、秋の香りがするから、……今は冬だと言うのに、秋の香りがするから。
 時は流れず、あの夏の終わりの続きのような気がした。
「ええ、勿論ですわ。
 私は幼子ではありませんもの」
 藤姫は涙をこらえて、言った。
 どうか、この心が見破られませんように。
 几帳があることに感謝した。
 藤姫はぴんと背を伸ばす。
 それに合わせて、ちりんと金属の音が鳴った。
 なよなよとしていたら、涙を零してしまいそうになる。
 弱音を零してしまいそうになる。
 星の一族の末裔なのだ。
 しっかりと気を持たなくてはいけない。
「ずっと、探していたものがあるのだよ」
 友雅はもったいぶるように切り出した。
 藤姫は何も言わない。
 言い訳を『聞く』だけ。
 そう、決めたからだ。
 パタパタと扇を開く音が静かに聞こえた。
「ずいぶん、時間がかかった。
 それでも見つけられたのだから、時間の無駄ではなかったのかな」
 友雅はなかなか本題に入ろうとしない。
「苦労したんだ」
 しみじみと友雅は言った。
 藤姫は気になって、気になって仕方がない。
 それはどんなものだったのか。
 苦労してまでも欲しかったのは、どうしてなのか。
 そこまで執心したのものとは、何なのか。
 ……自分を放っておいてまで、探したものが気になった。
「長いこと探していたから、探し続けるのが当たり前になってしまった。
 ああ、でも一番苦労したのは私ではなかったね。
 一番の功労者の名前を明かさないのは、公平さに欠く」
 友雅は言う。
 そんなことは、話の枝葉。
 あとで、話せば良いこと。
 わざと話を長くしていることぐらい、世間知らずの藤姫だとてわかり始める。
「全部、自分の手柄のことのように話すのはいけないね」
 友雅はクスッと笑う。
「誰か、と言うと。
 貴方もご存知の男だよ。
 手がかりを差し上げよう。
 その男は、とても真面目だ」
 のらりくらりと友雅は、語り始める。
 まるで、我慢比べをしているようだった。
 藤姫は眉根を寄せた。
 性質の悪いことに、相手は愉しんでいる。
 お詫びに来た相手の調子に合わせるなんて、理不尽だった。
 謝られるべきなのは藤姫なのだ。
 友雅が殊勝にすべきであり、愉しんでいるのは、間違っている。
 怒りにふるふると藤姫は震える。
 けれども、ここで怒鳴っては相手の思うツボなのだ。
 ここは藤姫が大人になって、一段上から友雅を見下して、許してあげるべきなのだ。
「和歌を詠むのはあまり得意ではないらしい。
 いつだったか、漢詩のほうが好きだと言っていたね。
 それで」
「友雅殿!」
 我慢の限界だった。
 藤姫は怒りのあまり、立ち上がってしまった。
 勢い良く、冠の飾りがシャランと鳴った。
「今日は、どんな御用があったのですか?」
 藤姫は居丈高に言った。
 几帳越しとは言え、男が笑ったのはわかった。
「昔、重たそうだ、と言ったのを覚えているかな?」
 友雅は声を落とした。
 それがとても真剣だったため、藤姫の怒りは解けてしまう。
 寂しくて、切なくて、……苦しい。
 幼いけれど聡明な星の姫は、声に潜んでいた感情を読み取ってしまった。
 そして、この姫はとても優しい……。
「ええ……」
 藤姫は気がそがれて、座った。
 一体、何のことだろうか。
 冠の話をこの場所でしたことと、男が来なかったことの繋がりが、稚い藤姫にはわからなかった。
 彼女は、本当に純粋無垢なのだ。
 感情の駆け引きに慣れていない。
 とかく、色に関しては。
「軽くしてあげようと思って、お節介をしてみたんだよ」
 私にしては珍しくね、と友雅は苦笑する。
「だから、他の姫君の元に通っていたわけではないんだよ」
「誰も、そんなことを思ってはいません!」
 はぐらかされた。
 そう感じた藤姫の声はとがる。
 先ほどの声は偽りだったのだろうか。
 また、騙されたのだろうか。
 と、藤姫は悔しく思う。
「それはそれは。
 私が仕事を真面目にすると、夜離れだと、何だと大騒ぎになり、終いには心移りだと」
「私と友雅殿は、恋人同士ではありませんでしょう?
 何故、そのようなことで騒がなければならないのですか?」
 話の論点をずらされる。
 それに危機感を覚えた藤姫は、懸命に話を本題に戻そうとする。
「ずいぶんとつれないお言葉だ」
 藤姫の必死な様子がまたおかしいのか、友雅は余裕の言葉をささやく。
 これでは、話が見えてくるまで、ずいぶんとかかりそうだ。
 手の平で転がされているような気がして。
 子ども扱いされているような気がして。
 藤姫は悲しくなった。
「おや。
 藤姫、お誂え向きだよ。
 天が私の無実を晴らしてくれるようだ」
 友雅は張りのある声で言う。
 外で何か、起きたのだろうか? 
 藤姫は茵から降り、几帳越しにそっと外を覗く。
 衣擦れの音がして、藤姫はビクンッと肩を揺らした。
 目の前の几帳が軽々と脇に追いやられる。
 びっくりして、見上げた。
 顔を隠すことすら忘れて、無垢な姫君は男を見上げたのだ。
 久方ぶりに見た男は、何一つ変わっていないような気がした。
 自分の背が伸び、髪が伸びても、この公達はどこも変わっていない。
 自信過剰な表情も、打ち解けやすそうに見えるのに排他的な雰囲気も……その魅惑的な瞳も。
「どうせ見るなら、御簾の辺りまでお出でになってはどうですか?」
 几帳をどけた失礼な男はからからと笑う。
「友雅殿!」
 恥ずかしさと、怒りで、顔を真っ赤にして藤姫は怒鳴った。
「香炉峰とはいかないが」
 友雅は御簾を掲げる。
 その仕草の典雅なること、その微笑みの柔らかなること。
 藤姫は思わず、見蕩れた。
 御簾の隙間から冷たい空気が流れ込む。
 香炉峰の雪は簾を掲げてみる。と、言う。
 雪が降っている……?
 藤姫は珍しい天からの贈り物に興味を持ち、御簾まで歩を進めた。
「まあ」
 藤姫は掲げられた御簾から、外を見た。
 雪が微かな風に舞い踊りながら、庭の緑や土や池に吸い込まれいく。
 美しい光景だ。
 このまま降り続けば、雪山が作れるだろうか。
 一面の銀世界に陽射し。
 どれほど、美しいのだろうか。
 藤姫の心は、雪に奪われた。
「貴方に従姉妹がいることがわかったよ」
 さりげない言葉だった。
 驚いて、藤姫は見上げた。
 吸い込まれそうな深い色の瞳は、常とは違い、穏やかな光が浮かんでいた。
「これで、寂しくはない……かな?
 今度、その姫君をお連れするよ」
 友雅は優しく微笑んだ。
 藤姫はただただ、驚くばかりだった。
 噂は、嘘ではない。と、藤姫は感じた。
 自分の心は、目の前の公達に弄ばれている。
 驚いたり、悲しくなったり、怒ったり……嬉しくなったり。




雪ぐ

身に受けた汚名・冤罪などを晴らし、名誉を挽回する。


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