弱竹耀夜比売(なよたけのかぐやひめ)

 人の口には戸が立てられない。
 秘密のことほど、話が速く広まる。
 これも、例外ではなかった。
 京の怪異は収まり、地上からの天への柱が立った。
 龍神はこの地の全ての穢れを払い、神子は去った。
 そのことが人の口端に登らないはずがない。
 去った者は、噂が流れ、やがて消えていく。
 ところが、残された者たちは噂の中から逃げ出せない。
 今宵の宴。
 月見と称されていたが、顔ぶれを見るとその実情との差異がおかしくてたまらない。
 次に権力を握りたい野心あふれる若者たち。
 そう、みな龍神の神子を見つけ出した星の一族の姫に興味があるのだ。
 今の土御門の方の威勢は、星の姫君を手に入れたからに違いないと、思っている。
 少なくとも、ここにいる者たちは。
 

 橘友雅は月に目を移し、それから細く息を吐き出した。
 今宵の月は、見事な満月。
 けれども、月見の宴に来た者たちの関心は『星の姫君』。
 煌々と光る晧い月よりも、それに従い静かに光る星の方が気がかりだとは、何とも皮肉な結果だ。
 自身が『八葉』と呼ばれる、龍神の神子のしもべであったため、星の姫君と面識があるが……、あの純粋無垢な姫君は今宵のことなど知らぬことだろう。
 今頃は、無聊の慰めに琴を弾いているだろうか。
 それとも聡い少女であるから、事の顛末を書き記しているだろうか。
 いずれにしろ、己の見合いのことなど知らぬだろう。
 それが、相応しい。
 友雅はぼんやりと思った。
 杯を乾すと、誰にも気づかれないように立ち上がる。
 このような宴に長居は無用。
 右大臣殿の好意は嬉しいが、右近の花には今が盛りの藤の花は眩しすぎる。



 人気のない方へ、歩を進めていたら、ずいぶんと奥まったところに来てしまったようだ。
 遠回りになるが、今夜のように月の明るいときはそれも良い。
 友雅は口元に笑みを浮かべる。
 退屈凌ぎに漢詩の一つでも吟じてみようか。
 今晩の月は格別に美しい。
 この月を題に、和歌を詠い掛けるのも楽しそうだ。
 

 友雅は立ち止まる。
 庭には先客がいた。
 月の明かりすら虚しいほどの光り耀く星の姫。
 柔らかな色の衣を二、三枚しどけなく肩に掛け、庭に立ち尽くしていた。
 満ちる月に何を愁うと言うのか、大人びた横顔だった。
 ……驚いた。
 そのことを隠そうと、平静を装い、手にしていた扇を開く。
 これは習い性と言うものだった。
 相手はまだ、こちらに気がついていない様子。
 友雅は大胆にもその姿を堪能した。
 咎める者は誰もいない。
 月日は流れていく。
 普段は気がつかないが、こういった時にそれは思い出される。
 確実に、時は流れているのだ。
 月が毎夜、満ち欠けするように。
 連続して、流れて、……そして、去っていく。
 友雅の視線の先には、清らな女人がいた。
 最上の形容をしても、まだ語りつくせぬ……美しさ、華やかさ、上品さ、神々しさ、どれもが意味が足りない。
 ただ、ただ……一言。

 清ら
 
 その存在全てが、この世のものとは思えない。
 友雅はこれと似た想いを一度、味わったことがある。
 忘れ難い、記憶だ。
 あの不思議な少女が、龍神を光臨させた時、感じた熱い思いにどこまでも似ていた。
 だが、それとは一線を画する。
 あの時の思いは、感動に近かった。
 己の魂が浄化されるような、心が揺さぶられるような感動だった。
 しかし、今は澱のように沈殿していく想いが鈍く感じられた。
 喜び……そう分類されるはずの、感情。
 だが、冥く粘り気を帯びたどす黒い情がしっくりと寄り添っている。


 友雅は、パチンと扇を閉じた。
 そうしたら、どうなるかわかっていた。
 けれども、そうせずにはおれなかった。
 自分の感情と決別するためかもしれない。


 案の定、少女はこちらに気がつき、振り返った。
 艶やかな長い髪が惜しみなく宙にまかれる。
 烏射玉の夜に相応しく、扇のように豊かな髪は幽かな花の香りを乗せて広がった。
「友雅殿」
 声には軽い苛立ちがこめられていた。
「これはこれはお久しゅう」
 友雅は少女に跪く。
「いつから、こちらに?」
 咎めるような響きが甘い声に乗る。
 いつまでも聴いていたいと思わせる魅力的な声だった。
「先ほど。
 右大臣殿に今宵の宴に誘われたのですが。
 酔いが回ったので、風に当たりにふらふらと散策していたんだよ」
「声をかけてくだされば良かったのに。
 それにいつまでも、そうされていると何やら心が落ち着きません」
 決まり悪そうに少女は言った。
 友雅は微笑を浮かべ、立ち上がった。
「なよ竹のかぐや姫。
 宴はあなたの話題で持ちきりだ。
 やはり、誰も選ばず天に帰るかな?」
「まあ。
 お上手ですこと」
 少女は口元を袖で隠すと、クスクスと笑う。
 天上の五百箇の鈴もかくや、匂うような華やかさ。
「あいにくと、真実を述べる口しか持ち合わせていないのだよ」
 友雅は扇をパタパタと開く。
「存じておりますわ。
 そう言って、多くの女性を泣かしていることぐらい」
「おや、それは心外だ。
 何時、私が女性を泣かせたと言うんだい?」
「ご自分のことでしょう。
 胸に手を当てて、考えて御覧なさいませ」
 姉のように、母のように、少女は諭す。
「わからないから、他人に訊くのだよ」
 友雅は言う。
 少女と軽口を叩き合うのも、面白い。
 自然と笑みがこぼれる。
「では、ずっと、ずーっと考えなさいませ。
 そうすれば、その間は哀しい女性は減りますもの」
「ずっと考えて、答えが出なかったときは?
 老いさらばえて、独りとは少し寂しい」
 責任は取ってくれるのかな?と悪戯に問えば
「知りません」
 やんわりと笑顔で答えられた。
 遠くに光る星々は人の手に届かぬように、実に冷たい。
 容易くたなびかれても困るが、こうも厳しいのも情がないように思われる。
 人の心は本当に不可解だ。
「さて、星の姫君。
 このような外で何をなさっていたのかな?
 夜更けに独りとは、無用心にも程があると言うもの」
「私とて、月を眺めたいと思うことぐらいあります」
「ならば、せめて縁側で。
 このように地に降りなくても」
 天少女は地には降りない。
 天少女を天に帰したくない男が羽衣を隠してしまうからだ。
「……」
 藤姫は袖で顔を隠した。
 一瞬、隠したその表情を見てみたいと、残酷なことを思ったが、友雅は目を逸らした。
 女性の嫌がることをするのは、彼の流儀に反した。
「友雅殿にはおわかりになりますか?
 天に帰られた天女を思う心が」
 ささやくように藤姫は言った。
「いくらかは。
 情の薄い男だと言われますが、辛い思いもわかるつもりなのだが、そうは見えないかな?」
 今、まさにその想いを感じている。
「私……」
 ためらいがちに少女は顔を上げた。
 そして、濡れたように耀く瞳は友雅を通り過ぎ、空を仰ぐ。
 耀く月を見た。
 天に帰りたいと望む耀夜姫のように。
「神子様を思い出したのです。
 あれから、まだ月が満ち欠けを二度しただけですわ。
 それなのに、恋しく思われますの」
 声は慕わしそうに紡がれる。
「それで、月」
 友雅は妙な納得をした。
 日輪のような少女であったが、しみじみと思い出すならば月の方が似つかわしい。
「もう、お逢いできないかと思うと……」
 涙がハラリと散った。
 拭うことなど思いつかぬと言うように、清らな少女は白露を零す。
「このような想いは初めてです。
 切なくて、苦しくて、……消えてしまいたいほど、焦がれる。
 夢でも良いからと、お逢いしたいと」
 それが恋の告白であれば、どれほど甘美だろうか。
 けれども、目の前の少女が恋い慕うのは己ではない。
「教えて下さい。
 どうすれば、このような想いは忘れることができるのでしょうか」
 ようやく少女は友雅を見た。
 泣き濡れた瞳がすがりつく。
「忘れる必要などないでしょう。
 どうして忘れると言うのですか、薄情な方だ。
 その想いをずっと抱えていれば良い。
 苦い想いもやがては甘露な記憶となる。
 その時まで、お待ちなさい」
「ですが……」
「神子殿がいなくなって、寂しいのは私たちも同じ。
 皆で、語り合いましょう。
 哀しみが癒されるまで、存分に」
「……そんな時が、本当に来るのですか……?」
「やがて、訪れるよ。
 心配なら、約を交わそうか?」
 誰よりも束縛が嫌いなはずの男は、言った。
 少女はこくんと愛らしくうなずいた。
「約束ですわ、友雅殿」
 可愛らしい唇が紡ぐ。
「はい」
 友雅ははっきりと言った。
 それから、零れる白露を己が袖で拭った。


 二人の約束を見ていたのは天上の五百の鈴と、晧い月だけだった。


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