木花開耶比売(このはなのさくやひめ)

「橘友雅様がお出ででございます」
 人払いをしていた部屋に女房まろぶように現れ告げた。
 この屋敷の末の姫、六の君は筆を止め、女房を見た。
 母の身分が低いため、入内するような姫君ではないのだが、凛とした気品があり、実に貴やかなのだ。
 その御髪の素晴らしいことはこの上なく、まだ十を数えたばかりだと言うのに、扇のように豊かに衣の上に広がっている。
 父の土御門の大臣もこの姫君を可愛がっており、この姫君を『藤』と呼び、宝物のように扱うのだった。
 母君の身分が低いことだけがただただ悔やまれるばかり。
 屋敷の中ではあまり広くもない部屋で、あてどもない暮らしをするような姫君ではないのだ。
 この姫君を見たら、上達部であろうとも心を動かせること間違いなし。
 その姫君に悪い虫がつくのは、女房としても気がかり。
 橘友雅という殿御は、女人の心を弄ぶのでは右に出る者がいないと言う方。
 主上の覚えめでたきとは言え、所詮は右近の中将。
 姓は橘。
 先が知れている。
 女房は懸命に仕えている姫君には、もっと幸せになって欲しいと思っていた。
 けれども……。



「まあ、友雅殿が」
 藤姫は喜んだ。
 裳着をすましていない藤姫の元に訪れる人は少なく、寂しい日々を過ごしている。
 この屋敷のどこぞの女性に通うついでとは言え、訪れてくれる友雅を兄のように慕っていたのだ。
 いや、実の兄君たちよりも、打ち解けていた。
「ぜひ、こちらに」
 藤姫は言った。
 程なくして女房と入れ替わるように、華のある公達が対にやってきた。
 白と紫を取り重ねた白躑躅の狩衣姿がこの季節に相応しく、すっきりとしていてどことなく品があった。
 微かに香るのは『侍従』。
 その秋風のような静かな香は彼そのもので、季節を外れと誰も思いはしない。
「今日は手土産があるのだよ」
 藤姫に許可なく御簾をくぐる男は、珍しいことに御簾越しに言った。
「まあ、どのような物をお持ちくださいましたの?」
 少女の瞳が歳相応にキラキラと輝く。
「さあ、当ててくださいな」
 友雅は笑む。
 右手を背に隠していることから、その物は片手で持て、なおかつ背に隠れる物だろう。
 物を当てると言う他愛のない遊びは、娯楽の少ない藤姫にとっては、魅力的な贈り物だった。
「絵巻物でしょうか?」
 藤姫は少し考えてから尋ねた。
「残念ながら、外れです」
 楽しげに友雅は言う。
 となると、難しい。
 持ち運びできる物で、藤姫にとって土産になる物。
 双六、碁、貝合わせでは片手では隠せまい。
「花、でしょうか?」
 恐る恐る、藤姫は訊いた。
 まだ、自分は花をもらうような年齢ではない。
 花は大人の女性が恋人からもらう物。
「当たりにしておきましょうか。
 ですが、名まで当てていただかなければ」
「難しいですわね。
 何か一つ、その花の手がかりになるようなものを」
 心がはやるのを抑えながら藤姫が問うと、
「君がため 春の野に出でし 我が袖に 空に知られぬ 雪ぞ降りつつ
 (君のために 春の野原に出かけた 私の袖に 空の知らない 雪が降り続くよ。)」
 友雅は即興で歌う。
 花をもらい、歌をもらうなど、まるで一人前の女性になったようで、恥ずかしいやら、誇らしいやら、不思議な気分になった。
「あまり、上手なできではないようだ。
 次は熟考を重ねた上で、お作りしよう。
 今日のところは、これで我慢して欲しい」
 友雅は魅惑的な笑みを零す。
「まあ」
 藤姫は大きな瞳をさらに大きくする。
「花の手がかり、ですわ」
 まるでそれでは将来、恋人となると約束したようなものだった。
「立派に手がかりになりますよ」
 友雅はしれっと言う。
 藤姫は一生懸命に考える。
 橘友雅は、粋な公達だ。
 どこかの和歌を下敷きに、和歌を作ったはずだ。
 上の句は『降る』に掛けるために『袖』を詠んだにすぎない……。
 『君がため 春の野に出でて 若菜つむ  わが衣手に 雪はふりつつ(光考天皇 古今集 21番歌)』
 『若菜』は花ではないし、時期外れだ。
 とは言え、……自信はない。

 空の知られぬ雪

 それが、花の手がかりだろう。
 そんな気がした。
 雪のような……花。
「降参かな?」
 ニコニコと友雅は問う。
「まだまだです」
 藤姫は頬に手をあて、考え込む。
 雪のように降る花。
 ハラハラと風に乗って……散る花。
 零れるように……咲いて。
 青い虚空へと。
 雪のように儚くて、溶けてしまうような。
「では、もう一つ手がかりを差し上げよう。
 その花は、とても花らしい花だよ」
 友雅は重大なことを事も無げに言った。
「桜です!」
 藤姫は思わず大きな声を上げた。
 和歌で『花』と言えば、『桜』を指す。
 ましてや、今の時期だ。
「正解だ」
 友雅は立ち上がり、御簾をくぐる。
 几帳すら意味のない物になった。
 二人の間には障害のなるような物は、一つもなくなった。
 侍従の香が、いっそう薫る。
 それを間近にしても驚きもしないほど、この藤姫は友雅に慣れていた。
「どうぞ、姫君」
 差し出されたのは、一枝の桜。
 薄紅色の小さな花弁がほころび、今が見頃の花であった。
 秋風と重なるように、春の香が薫る。
 藤姫はにっこりと笑う。
「庭で一番綺麗に咲いていた枝だ。
 ぜひ、見せたいと思ってね。
 見境のない童のように手折ってしまったんだよ」
 大切な秘密を明かすように、男は神妙な面持ちでささやいた。
 それがくすぐったかった。
 自分だけ特別扱いされたような気分で、晴れがましい。
「よろしいんですの?」
 星を宿す大きな瞳は男を見上げた。
「受け取っていただけないなら、この花は無為になる」
 幼子をあやすように、友雅は穏やかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
 藤姫は桜を受け取る。
 その際に、冷たい指先とふれあい、心が震えた。
 自分の心の動きが不思議に思え、藤姫は瞳を瞬かせた。
 刹那な感情ゆえに、藤姫はその想いに名をつけることはできなかった。
「空の知らぬ雪とは、風雅な響きですわね」
 藤姫は、桜を愛でる。
「私の考えたものではないから、面白くないがね。
 たまには、他人から借りるのも悪くはない」
 友雅は自由になった右手で扇を開き、ゆるりと扇ぐ。
「まあ」
 藤姫は口元を袖で隠し、クスクスと笑った。
 この方にも悔しいと思うことがおありだとは。
 意外な感じがして、それが余計におかしかった。
「男に歌を呼びかけられたら、返事をするものだよ。
 父君に教わらなかったのかい?」
 友雅は藤姫の顔を覗き込み言った。
 並みの姫君なら失神しただろうが、良くも悪くも藤姫は友雅に慣れていた。
「容易く女は返事をしないものだと、女房は言いますわ」
 藤姫は自信を持って答える。
「知らぬ仲ではないだろうに。
 本番に備えて、和歌の一つや二つ詠んでみたら、どうだろう?」
 歌が欲しいのか、友雅は食い下がる。
 物に執着する性質ではない男だから、貴重な言葉である。
「私はまだ蕾ですもの。
 色も匂いもありませんわ」
「ずいぶんとつれないお言葉だ」
 意味深に友雅は流し目をよこす。
 実のところ、藤姫には和歌を詠むのは難しい。
 細かい規則があり、流行もある。
 今一つな和歌を、目の前の風流な公達に添削されたくはない。
 できることなら、この状況はかわしたいところだった。
 しばし考えてから、藤姫は名案を思いついた。
「友雅殿がいらっしゃるまで、手習いをしてましたの。
 私は、未熟者ですから、この歌を代わりに差し上げますわ」
 藤姫は文机の上に乗っていた、美しい紙を友雅に差し出した。
 銀色の趣のある紙には、小さいながらまとまりのある雅やかなかな文字で、墨色豊かに和歌が一首記されていた。
 それを読んだ友雅は苦笑した。
「そんなに私は移り気に見えるのかな?」
「さあ、どうでしょう」
 藤姫は大人の女性のようにすまして答える。

花がたみ めならぶ人の あまたあれば 忘られぬらむ 数ならぬ身は(古今754番歌)

 (花籠の網目がびっしり並んでいるように、あの人には目移りするお相手がたくさんいるので、私など数の内に入らないでしょう。)


遙かなる時空の中でTOPへ戻る