妹は、変わってしまっているだろうから、変わらない日々が続くことをこの国の皇太子は思っていた。
年月は目に見えるように流れ、感傷を押し流す。
人に諦めと我慢を植えつける。
だから、セイリオスも思い込んでいた。
あの小さな妹は、麗しい貴婦人になってしまっただろう、と。
昔のように、自分の後ろをついて歩くことはない。
寂しいけれど、それでかまわない。
それが自然なのだ。
そう思っていた。
けれども、妹は変わっていなかった。
姿こそ小さな淑女であったが、あっさりと城の外へと出ていく、身分を気にせず誰にでも話しかける。
そして――。
静謐に保たれた神殿。
礼拝の時間ではないため、人気(ひとけ)はない。
一人になれるためか、セイリオスはこの場所を好んだ。
摂政殿下である青年の周りには、常に人がいる。
彼らは己の職務を果たすためにいるのだが、時折見張られているような気になるのだ。
自分がここから逃げ出さないよう。
秘密を漏らさないよう。
皇太子としての立場を忘れないよう。
視線を感じるのだ。
明り取り用の窓から差し込む光を感じながら、エーベ像と向き合う。
慈悲深き女神は何も語らない。
沈黙する眼差しは、この世界を憂えているのだろうか。
信仰は一握りの希望になる。
セイリオスは熱心に祈る。
この国の行く末を、王家の幸せを。
「お兄様、こちらにいらしたのですね。
おはようですわ」
雲雀のように高く澄んだ声が朗らかに言う。
セイリオスは振り返り
「おはよう。ディアーナ」
小さな妹を見た。
夏の暑さを跳ね返すような装いだった。
純白を基調に、淡い青が要所要所を飾り、金の刺繍が華を添える。
ドレスと同布の帽子は、夏の日差しをさけるようにつばが広い。
紫水晶のような瞳と薔薇色の髪が引き立つ。
「新しい帽子のようだね。
よく似合っている」
「ええ、今日の朝、届きましたのよ。
お兄様に一番にお見せしたくて、急いできましたの」
紫の瞳をキラキラと輝かせ少女は言う。
未だに少女の中では、己が一番だということが嬉しかった。
「まさか、走ったりはしてないだろうね」
が、兄としての立場が小言を言わせる。
「それは、大丈夫ですわ!
走ったりして、帽子が乱れたりしたら悲しいですもの。
お兄様には一番綺麗な姿で見て欲しかったから、努力しましたわ」
得意げにディアーナは言った。
ドレスの裾を軽くつまみ、夜会のときのようにターンをする。
ふわりとドレスの裾が広がり、真っ白な花が咲いたようだった。
薔薇色の髪が差し込む日差しを飾りに輝く。
セイリオスは目を細める。
仕草も口ぐせも北の離宮で過ごした日々と重なる。
目の前にいるのは、やがて大輪の花になる蕾。
あの頃とは違う。
何も知らなかった頃とは違う。
だから、セイリオスは美しい光景を前にして、ほろ苦い気持ちになる。
「綺麗だよ。ディアーナ。
女神も羨むほどに」
青年は言った。
「まあ、本当ですの?
頑張った甲斐がありましたわ。
お兄様がどちらにいらっしゃるかわからなかったから、初めにこちらに来ましたの。
執務室に行って、アイシュやシオンに先に会ってしまったら、悲しいですもの。
ところで、お兄様、お時間ありますの?」
「どこへ、連れて行きたいんだい?
言っておくが、街は駄目だからな」
セイリオスは釘を刺す。
「このような格好では目立ってしまいますわ。
王宮の中庭をお散歩いたしましょう」
「中庭なら、かまわないよ。
付き合おう」
神殿のすぐ側にある中庭なら、王宮の中だけあって、警護は万全であり、危険は少ない。
皇太子と第二王女の散策に、相応しい場所だった。
妹は自分自身の価値というものをわかっていない節がある。
「夏の朝は素敵ですわ。
みなキラキラしていますのよ。
さあ、行きましょう」
ディアーナは子ども時代そうしたように、セイリオスの手を引く。
それに青年は軽く被りを振り、少女の手をほどく。
己と同じ色の瞳は困惑を訴える。
「いくら兄とはいえ、手をつなぐわけにはいかないよ。
もうすぐディアーナは大人の仲間入りをするのだからね。
手をつないで歩いて良いのは、ディアーナの夫だけだ」
優しくセイリオスは諭す。
「はいですわ」
残念そうにディアーナはうなずいた。
妹は変わらない、とセイリオスは何度も思う。
勘違いしてしまわないように、青年は心の中で念を押す。
中庭は、夏の良さと朝の良さが同居しているようだった。
煌く真っ白な陽光は夏そのもので、嫌になるような暑さは朝の涼しさが払拭していた。
少女の歩幅に合わせて歩く散策は、いつもよりもゆったりとしていて、色々なものがよく見えた。
普段であれば見落としてしまうようなことが、すぐ隣にあった。
明日の朝に咲くだろう蕾の数、葉陰で羽を休める蝶の姿。
「夏は大好きですわ。
特に、今年の夏は一番好きになりますわ」
ディアーナは言う。
「どうしてだい?」
「だって、わたくしのお誕生日とお兄様のお誕生日が来るんですもの。
今年は直接お祝いできますのね。
今からとても楽しみにしていますのよ」
微笑を浮かべながら、少女は語る。
「それは、遠まわしなプレゼントの催促かな?
ディアーナの誕生日のほうが先に来るから、忘れないように、ってね」
「まあ! 誤解ですわ。
本当に一番好きになる、夏なんですのよ。
たくさんの贈り物をいただくよりも、お兄様にお祝いの言葉をかけていただくほうが何倍も嬉しいんですわ。
……長いこと、離れていましたでしょ?」
「ディアーナ」
「プレゼントは必要ありませんわ。
わたくしのお誕生日に、今日のようにお兄様に逢いにいきます。
だから一言『おめでとう』と言って欲しいんですの。
それで十分ですわ」
紫水晶の瞳が真剣にセイリオスを見上げる。
「心配しなくても、ディアーナの誕生日には、直接プレゼントを持っていくよ。
もちろん祝いの言葉と一緒にね」
妹に甘い兄の顔で、セイリオスは言った。
「約束ですわよ」
「ああ、約束だ」
妹は、変わってしまっているだろうから、変わらない日々が続くことをこの国の皇太子は思っていた。
けれども、妹は変わっていなかったから、彼の日常は少しばかり変化を持った。
くりかえされる政務の間、妹は時に厄介ごとを、時には楽しい誘いを携えてやってくる。
それをセイリオスは、いつの間にか心待ちにするようになってしまった。