月が天頂を目指して昇りきる頃。
緋色の肩掛けを若くして許された青年の部屋がノックされた。
本を読んでいたキール=セリアンは、それを無視した。
こんな夜更けに訪れる人物はロクでもない。
真っ当な人間なら、もう少し早い時間に来るものだ。
キールは本のページをめくる。
再びノックされた。
キールは無視をした。
今はできるだけ手がかりが欲しい。
気がつけば秋は深まり、郊外では落葉が始まっている。
例年なら本を片手に出かけるところだが、今年は事情が違う。
焦りがページをめくる手を早める。
扉はまた叩かれた。
どうやらノックの主は諦めという言葉を知らないようだ。
キールは無視を決めこんだ。
ためいきをついて、本を閉じる。
机の上に積まれた本の山から一冊、引き抜く。
新しい本を開く。
扉がやや乱暴に開かれた。
鍵をかけておけばよかった、と青年は後悔した。
「寝てるのかと思ったら、起きてるじゃん」
被保護者が乱入してきた。
顔を上げなくてもわかる朗らかな声だった。
少女はまるで旋風のように、青年のペースを崩す。
「何の用だ?
また魔法を暴走させて、部屋を焦したか?」
「ひっどーい!
キールはあたしのことを何だと思っているの?
最近はコントロールができるようになったから、そんな初歩的なミスはしないよ」
メイ=フジワラは言った。
彼女の故郷風に言えば、藤原芽衣か。
「それは良いことだ」
ページをめくりながらキールは言った。
「前から思っていたんだけど、そのスピードで読めてるの?」
「必要な情報はインプットできているが?」
深く息を吐き出しながらキールは答えた。
「スゴいね! キールは天才なんだね」
真っ直ぐな賞賛だった。
妬みも、やっかみも、皮肉も混じっていない。
速読は取り柄と言えば取り柄だが、それだけだ。
優秀なのは双子の兄の方だ。
いつもアイシュの双子の弟という枠から出られない。
青年は微苦笑を浮かべた。
「天才っていうのは兄貴みたいなのを言うんだ」
「アイシュもキールのこと、よく褒めるよ。
自慢の弟だって。
仲がいいんだね」
芽衣は言った。
普段どんな話をしているのだろうか。
気になったが、感情に蓋をした。
「そうじゃなくって!
どうして今日が誕生日だって、教えてくれなかったの?」
芽衣の言葉にキールは顔を上げた。
「ディアーナから、今日はアイシュの誕生日だって聞いて。
双子なんだからキールも誕生日だって気がついて。
何の用意もできなかったんだから!」
焦げ茶色の瞳には怒りが宿っていた。
「一つ歳をとるだけだ。
成人前なら意味はあるだろうが、どんちゃん騒ぎをする気はない」
青年は淡々と言った。
「キールはあたしの誕生日を祝ってくれたじゃん。
とっても嬉しかったんだよ。
だから、キールの誕生日には格別な贈り物をしたいと思っていたのに。
どうして教えてくれなかったの!」
「この歳になるとどうでもいい一日だ」
「そんなの寂しいよ。
遅くなっちゃったけど」
芽衣は机の目の前まで来ると、持っていた紙袋からそれを取り出した。
綺麗にカットされたパウンドケーキ。
甘い香りが鼻をくすぐった。
「乳製品、食べられないって聞いて。
これだったら食べるかなって思って。
牛乳、使わないで作ってみたんだ」
芽衣は説明する。
心遣いにキールの気持ちが揺れた。
「お誕生日、おめでとう。キール」
芽衣は笑った。
それが本当に幸せそうだったから、胸が痛んだ。
異世界での生活は辛いだろう。
家族や友人から引き離されて見知らぬ他人と過ごす。
芽衣は、大変さを見せずに明るく振舞っている。
すぐに帰してやりたかったのに、半年以上経過してしまった。
そんな罪悪感が感謝の言葉を詰まらせる。
「もう半分はアイシュに渡したから。
これ全部、キールの分だよ。
遠慮なく食べてね」
「兄貴で毒見ずみか」
平等さに寂しさ半分、嬉しさ半分だった。
「ひどいなぁ。
芽衣様特製パウンドケーキは、けっこう評判がいいんだからね。
食べたら幸せな味がするんだから」
「ずいぶんな自信だな。
お礼に明日の課題は二倍にするか」
「こういう時は『ありがとう』を言うもんでしょ。
キールは素直じゃないなぁ」
「俺にとって普通の日だと言っただろう?」
青年は読みかけの本を閉じた。
机の上に置かれたパウンドケーキを口に運ぶ。
既製品にはない温かみのある味がした。
手作りのパウンドケーキは、幸せな家庭を思い出させた。
幼い頃、食べたことのあるような。
懐かしい味だった。
兄以外から、誕生日を祝われたのは何年ぶりだろうか。
視線を感じて、キールは目を合わせる。
焦げ茶色の瞳は期待に満ちていた。
「思ったよりも悪くない味だな」
控えめな評価を言った。
「美味しいでしょ」
少女は嬉しそうに笑みを深くした。
来年も食べたい。
あり得るはずのない感想が脳裏を過った。
これは、今年だけの特別なケーキだ。
来年、被保護者は本当の家族と囲まれているはずだ。
そのために、キールは努力しているのだ。
「キールにちゃんと気に入ってもらえて良かった。
誕生日は一年に一度の素敵な日じゃないとね」
芽衣の声は弾んでいた。
「用件がすんだだろう?
部屋に戻れ。
もう寝る時間だ」
これ以上、嬉しくなるようなことが増えたら別離が厳しいものになるだろう。
期待をしている自分に気がつき、青年は動揺する。
「はーい。
キールもちゃんと寝るんだよ。
おやすみなさい。
また明日」
入ってきた時のように、にぎやかに少女は部屋を出ていく。
栗色の髪がさらりと月光をはじく。
小さな背を見送る。
扉が閉じられると静寂が戻ってきた。
残されたパウンドケーキを見て、キールはためいきを一つついた。