遠く離れて気がつくことは、帰るべき場所がすでに永遠の春になっていること。
ルヴァはあくびをしながら、窓の外を見上げた。
青い空は完全に朝になったことを告げていた。
違う……空だ。
うーんと伸びをする。
トロンっとした気分が、何とかシャキッとする。
大きく息を吐き出してから、書き上がったばかりの報告書をファイルにしまう。
あくまでも推論でしかない説の上に成り立つ推理。
それがどんなに虚しいか、よくわかっている。
ルヴァは立ち上がった。
まるで自分に取りつく冥い考えを打ち払うかのように。
ルヴァは朝の散歩に出た。
私邸の周囲の林をゆっくりと、歩く。
生まれたての空気を吸い込む。
青い空と白い雲の下に、木々の緑が続いていく。
豊かで美しい自然だ。
けれども、ここは聖地ではない。
点睛を欠く。
ここが聖地でないことが、残念だった。
ルヴァは空を仰ぐ。
空はいつものように青かった。
心が吸い込まれそうな青だった。
帰りたい
白く上品なたたずまいの城、規則的に敷き詰められた煉瓦道。整然とした光景。
帰りたい。
ルヴァは思った。
無性に。
思ってしまった……。
そして、気がついてしまった。
帰りたいと思う場所は、故郷の砂漠ではないことを。
あの夢のように美しい聖地である、ということを。
あまりに長く居すぎた。
聖地が第二の故郷になってしまった。
少し寂しいことではあったが、ルヴァは微笑んだ。
何故なら……。
そこで考えは打ち切られた。
ルヴァは灰色の瞳を見開いた。
鳥がいる
美しい朝の風景に鳥がいた。
それは明らかな違和。
尾が長くほっそりとしたシルエットの鳥は、黄金の光を放っていた。
普通の鳥ではない。
……神鳥だ。
神鳥は宇宙であり、女王陛下そのものである。
このアルカディアに、それもこんな林の中にいてはいけないのだ。
唐突に、神鳥は強い光を放った。
ルヴァは眩しさのあまり、目をつぶった。
巨大な光は辺りの色彩を強奪する。
その一瞬後、林は静けさを取り戻す。
ルヴァは、暗示的な出来事に途惑いを覚えながら、走り出した。
朝が見せた幻覚と片付けるには、不安が大きい。
明晰な頭は、大混乱していた。
一秒でも早く、彼の人が無事であることを確かめたかった。
迷子になった子どものように、ルヴァは不安を抱えながら……走った。
◇◆◇◆◇
せつなくなる夢を見た。
目覚めたら、涙がこぼれるような。
翡翠色の瞳から、静かに雫がこぼれ落ちていた。
夢は、良い夢だった。
昔の……、両親がいて、友だちがいて、学校に通っていた。そんな昔の日常の一コマ。
実際にあった出来事のような、夢。
天使の名を持つ少女は泣いた。
宇宙の女王となっても、アンジェリークはまだまだ「子ども」だった。
帰ることができなくなって、初めて失ったものの重さを知る。
故郷を思う。
時の流れは無常だ。
寂しくて、辛くて。
でも、どうしようもなく、過去のことになってしまったのだ。
逢いたい人たちは、もういない。
そのことに、ためいきをつく。
「帰りたい……」
アンジェリークはつぶやいた。
願いは引き寄せられる。
重なる重い想い。
それは光となり、風よりも速く、時間の中を駆け抜ける。
トントン
「アンジェリーク、入るわよ」
麗しき女王補佐官にして、アンジェリークの親友は、微笑む。
「……ロザリア」
アンジェリークは慌てて涙を手の甲で拭う。
何事もなかったように、上半身を起こす。
ロザリアはベットの端に腰をかけると、アンジェリークを優しく見つめる。
「怖い夢でも見たの?」
問われて、アンジェリークは詰まる。
時間から切り離されたのは、彼女も一緒。
彼女の前だからこそ、弱音を吐いてはいけない。
そう思っても、涙がこぼれた。
「違うの……。
とても、とても……。
……なつかしい夢を見たの……」
アンジェリークはつぶやいた。
心に広がる思いは『寂しい』。
強い、孤独感だった。
「そう……」
ロザリアはそれだけ言うと、アンジェリークを抱きしめた。
辛いのは、一緒なはずなのに。
慰めるように、ポンポンと軽く背を叩いてくれる。
こんなにここで大切に想われている。
それが伝わってきて、孤独が癒されていく。
アンジェリークの『寂しさ』は薄れていく。
グスンッと、アンジェリークは鼻をすすった。
それから、笑った。
「もう、大丈夫?」
ロザリアは訊いた。
「うん」
「じゃあ、良いことを教えてあげるわ」
ロザリアはスッと立ち上がると、悪戯っぽく笑った。
アンジェリークはきょとんとした。
「ルヴァが来ているの。
陛下に謁見したいそうよ」
「え!
どうしよう!
な、何のようだろう?
仕事かなぁ?
でも、嬉しい!!」
アンジェリークは頬を紅潮させる。
こらえていても、顔がゆるむ。
「嬉しい!」
我慢できずに、少女は自分の感情を叫んだ。
親友はクスクスを笑った。
◇◆◇◆◇
短いような、長いような時間。
天使は扉を開けた。
白いスカートをひるがえして、駆け込んでくる。
元気な姿にルヴァは、心から安堵した。
「遅くなってごめんなさい」
アンジェリークは言った。
「いいえー、こちらこそ。
こんな早い時間にー、すみませんねー」
「それで、アルカディアについて何かわかったの?」
いと尊き女王陛下は、ルヴァを見上げた。
「あー、仕事と言うわけでは、ないんですよー。
そのー、考え事をしていたらですねー。
……そのー。
急に、あなたに会いたくなってしまったんですよねー」
ルヴァは申しわけなさそうに言った。
「え?」
翡翠色の瞳が大きく見開かれる。
「あー、迷惑ですよねー。
どうも、すみませんー」
ルヴァはいたたまれなくなって、床を見つめた。
「いえ、そんなことないわ!
ちょっと、びっくりしただけで!
あ、そうだ。
お散歩に行きましょう!」
アンジェリークは元気良く言う。
「あー、いいですねー」
ルヴァは微笑んだ。
彼女がいつも通りで、嬉しかった。
◇◆◇◆◇
「ところで、どんなことを考えていたの?」
アンジェリークは訊いた。
好きな人と一緒だから、声は自然に弾んだものになる。
「えー、そうですねー。
何から話せばよいのやら…」
ルヴァはのんびりと話し出す。
落ち着いた声が、耳に馴染む。
アンジェリークの唇は、微笑みを刻む。
「あー、故郷のことについて考えていたんです」
ブルーグレーの瞳は、不思議な色をたたえていた。
「砂の惑星のこと?」
「いいえー。違うんですよー。
あー、不思議なものですねー。
砂の惑星ではなかったんです」
ルヴァは穏やかな微笑みを浮かべる。
アンジェリークはきょとんとした。
「砂ばかりのあの星は、今でも私の故郷です」
懐かしそうに、ルヴァは空を仰ぐ。
「ですが。
えー、聖地のことだったんです。
私が思う故郷は、そのー、あの聖地なんですー」
ブルーグレーの瞳がアンジェリークを見た。
「……帰りたい、と思ったりしない?
砂の惑星には?」
今日の夢を思い出して、アンジェリークは訊いた。
「……どう言っても嘘になりますねー。
懐かしい、と思いますよー。
砂の惑星は、いつまでも私の故郷です。
思い出すと、心にほんわかと灯が灯ったようです」
ルヴァは静かに瞳を伏せて、胸の上に手を置いた。
「でも、帰りたいとは強くは思いません」
思ったよりも、力強い声だった。
「あー、陛下にはまだおわかりになりづらい感覚でしょうが。
もう砂の惑星は、私の故郷ではないんです。
私の知ってる、ね。
だから、そのー、どう言ったら良いですかねー。
えー」
ルヴァは一生懸命に説明する。
アンジェリークは何となく、理解した。
時の流れは変化をもたらす。
帰りたい故郷は、もう存在しないのだ。
「で、ですねー。
やっぱり、帰りたいと思うのは、聖地なんですよー」
ルヴァは気負わずに言う。
辛くないんだろうか。
そんなはずはない。
今だって、こんなに恋しく思う場所。
「どうして?」
アンジェリークは思わず訊いた。
「愛しいと思えるのは、様々な出来事が通り過ぎたからです。
ずいぶんとあそこで時を重ねましたから。
それに……」
ルヴァはそこで言葉を切った。
アンジェリークは、そう背が高くない男性を見上げた。
広い大地そのもの。
温かな人だと、アンジェリークは思った。
「私は大切な人がいるところが故郷だと思うんです」
ルヴァは、はっきりと言った。
その言葉はアンジェリークの心に染みこむ。
帰りたい故郷は、そのままに。
時に思い出して、そっと胸を温める。
そして、新しくできた故郷に帰っていく。
「はい」
アンジェリークは故郷を思った。
二つの故郷を。