地の守護聖ルヴァは宮殿の廊下を歩いていた。
廊下は道の幅の赤い絨毯が敷かれている。
初めて来たときはその見事さゆえに、足を乗せるのもためらわれた。
この宇宙の女王陛下のための居城に敷かれる絨毯である。
この上なくこっくりとした深みと光沢を持つ赤の毛並みは長く、一歩ごとに足が沈んでいくような感覚がする。
そこへ自然光が硝子窓を透り越して落ちる。
塵一つない完璧たる廊下。
今では通い慣れた道だ。
開け放たれたままの扉から、鈴の音を転がしたような笑い声が響く。
ルヴァは我知らずと微笑んでいた。
あの声は天高き女王陛下の声だ。
どうやら炎の守護聖オスカーと歓談中らしい。
淑女の扱いはお手の物の彼らしく、華やぎにあふれた会話が耳に入る。
自分はついつい説教口調になってしまうことを自覚しているので、ほんの少し羨ましく思う。
「まあ、オスカーったら冗談ばっかり」
金の髪の女王アンジェリークは機嫌良く笑う。
「陛下、そんなに俺は嘘つきに見えますか?」
心外だと言わんばかりに、オスカーは言う。
「ええ、とっても」
「お言葉ですが、どこにそんな証拠があるのですか?
俺の口が告げるのは真実だけですよ」
オスカーは甘くささやく。
何も知らない夢見る乙女なら、危うく誤解してしまいそうな声で。
「オスカー。
その言葉がすでに嘘よ」
アンジェリークはクスクスと笑う。
「どうすれば信じていただけますか?」
「そうねー」
アンジェリークは思案するように呟く。
トントン
ルヴァは開いたままの扉をノックする。
「あー、お話中、お邪魔しますよー」
のんびりとルヴァは二人に声をかけた。
女王としての正装ではなく、軽やかな執務服をまとった少女は今日も愛らしかった。
「良いところに来てくれましたね。
こちらの女王陛下は俺が言うことをちっとも信じてくれないんです。
ぜひ、あなたからも言ってください」
オスカーが言う。
「はあ?
何のことですかー?」
ルヴァは上背のある青年を見返した。
彼の言葉の意味がわからない。
主題がごっそりと抜け落ちているのだ。
「陛下は候補時代から可愛らしかったけれども、最近はそれプラス綺麗になった、と言うことを」
オスカーはサラリと歯の浮くような言葉を言った。
「私は何も変わっていないわ。
まだ、女王になって二ヶ月だし。
もう、オスカーは口が上手いんだから。
ルヴァまで巻き込まないでちょうだい」
アンジェリークは口を尖らせる。
ルヴァの灰色の瞳は女王に下ろされる。
可愛らしい少女だ。
明るくて元気なところは候補時代から変わっていない。
しかし、それだけではない。
黄金の翼がその背にある。
慈しみ、と言う名の翼だ。
その光りがさらに少女を輝かせ、より尊い存在であるとしらしめる。
「えー、そうですねー。
綺麗になりましたねー」
寂しげにルヴァは微笑む。
彼女は手のかかる生徒だった。
だった、のだ。
今は違う。
あぐべき女王陛下なのだ。
「え!」
正直な賛辞にアンジェリークは赤面した。
その変化にオスカーは苦笑した。
「邪魔者は退散するとしましょう。
俺が馬に蹴られたら、多くのレディとお嬢ちゃんが悲しむ。
失礼しますよ、陛下」
絵物語の騎士のように優雅に一礼すると、オスカーは退出した。
「……そんなことはないんですけどねー」
ルヴァは呟く。
それは何故か、ためいき混じりのものになった。
「馬に蹴られる?
どういう意味かしら?」
アンジェリークはきょとんとして小首をかしげる。
「昔の言い回しです。
たいした意味ではありませんよー」
ルヴァはごまかした。
オスカーの完全なる勘違いなのだ。
それを説明して、訂正しなおすのは、根気の要る作業である。
そして、それ以上に気が滅入るような……感情との付き合いになる。
「あ、そういえば、何の用かしら?
お茶のお誘いだったら、嬉しいんだけれど」
翡翠色の瞳がルヴァを見上げた。
「あー、そうですねー。
今日は天気がいいですし、中庭でお茶などどうですかー?」
本来の目的と違うことを告げる。
「よろこんで!」
アンジェリークは嬉しそうに笑う。
この笑顔が見れただけで、良しとしましょう。
ルヴァは、そう思った。
◇◆◇◆◇
中庭にテーブルを引っ張り出して、二人きりのお茶会が始まった。
と、言っても二人きりだったのは、ほんの少しの間。
人気者の女王陛下は、あっと言う間に人に囲まれてしまう。
ルヴァは忙しく客人たちにお茶を振舞う。
会って話そうと思ったことは、結局言い出しそびれる。
人の輪から少し離れた場所で、アンジェリークを見つめる。
それだけで満足だった。
やがて日が傾き始め、お茶会はお開きになる。
人は散り散りに帰っていった。
カチャン
白磁のティーカップを重ねると、小さく音を奏でる。
辺りが静まり返っているので、余計にその音が大きく聞こえる。
手伝いの申し出は全て断ってしまったので、本当に一人きりの片づけだ。
先ほどまでの賑やかさは嘘のよう。
西の果ても静謐を保っている。
月光と植え込みを照らす灯りだけが頼りである。
重ねたカップを銀のトレイの上に乗せる。
ふと、一つの席が目に入る。
アンジェリークが座っていた席だ。
あそこで、今日も彼女は笑っていた。
じんわりと心が温まる。
ルヴァは柔らかな微笑を浮かべた。
明日が今日の続きでありますように。
彼は手を止め、空を仰いだ。
故郷では滅多に見られなかった星空が圧倒するように燦然と輝いていた。
宇宙の前では自分はちっぽけな存在だった。
自分は地の守護聖であったけれど、宇宙というものはもっと大きく広い。
ルヴァの願いも、祈りも、ささやかなものだろう。
でも願いは天まで届くだろうか。
祈りはあの人の元まで届くだろうか。
ルヴァは静かに瞳を伏せた。
「ルヴァ」
「は、はい!」
ルヴァは素っ頓狂な声を上げた。
びっくりして振り返る。
微かな光りに彩られた金の髪の少女が立っていた。
「あー、驚いてしまいましたよ。
えー、そのぉ、帰られたんじゃなかったんですか?」
「戻ってきちゃった」
「はあ、そうですかー」
ルヴァはつい相槌を打ってしまう。
いくら聖地が安全とは言え、日が落ちてから一人で女性が出歩くのは好ましくはない。
特に、目の前の少女は、女王なのだから。
「忘れ物をしたの」
「あー、そうなんですかー」
一人歩きに対するあまり納得のできる理由ではなかった。
候補時代から好奇心旺盛で、規則に関してはおおらかな少女だった。
そうそうに変わらないということだろう。
ジュリアス辺りが知ったら、そうとう怒るんでしょうねー。
容易に想像でき、ルヴァは微苦笑する。
横道にそれがちな思考を中断して、ルヴァはアンジェリークの座っていた席を見る。
そこには忘れ物らしき物はなかった。
「えー、どんな物をお忘れになったんですかー?」
ルヴァはアンジェリークに向き直った。
少女は完璧なにっこり笑顔を浮かべる。
釣られてルヴァもニコッと笑う。
「ルヴァの用件を訊くのを忘れていたの」
「あー、私の用件をー。
え、は、あっ! ……そのぉー」
ルヴァは慌てた。
一生忘れていてくれてもかまわなかったのだ。
「わたしったら、すっかり聞くのを忘れて。
今からじゃ、遅すぎるかしら?」
無邪気にそう言われたら、用件を言わないわけにいかない。
「いえ、そんなことはありません。
えー、その、たいした用ではなかったんですー。
あー、あのですねー。
これを受け取っていただきたくて……」
ルヴァは小さな小さな小箱を、テーブルの上に置いた。
ずっと持ち歩いていたせいか、結ばれているリボンはすっかりヨレヨレしていた。
ちょっとくたびれて、申し訳なさそうにテーブルの上に乗っている小箱は、まるでルヴァ自身のようであった。
「ありがとう、ルヴァ。
開けてもいい?」
嬉しそうにそう言ってもらえて、ルヴァはホッとした。
「あー、はい。
もちろんです」
ルヴァはうなずいた。
小箱の中身は、小さな石だった。
小指の爪の先ほどの、丁寧に楕円形に磨かれた不透明な翠の石。
こう薄暗い中では、魅力も失せて見える。
残念だった。
明るい陽の下で見たなら、もういくらかは見栄えが違っただろうに。
「これは?」
「ヒスイ、と言うんですよ。
この色の羽根を持つ鳥がいて、それに因んでいるんですー」
「……鳥の石」
アンジェリークはうっとりとつぶやいた。
「えー、私の故郷では特に大切にされていて……。
一生に一度の巡礼の旅に出るんですが、そのー、この石を探すために。
あー、話がそれてしまいましたねー。
この石は、私の地の指輪の双子石でー、……あー、双子石というのは同じ原石のことです。
あー、そのー、私が持っていても仕方がなくて。
えー、飾り物をする趣味はありませんし、できたらあなたの身を飾れたらと。
この石は幸せになると思うんですー。
そのー、……迷惑でしたかー?」
「いえ!
ステキだと思いました。
見てると落ち着くというか。
とっても、キレイです」
アンジェリークはにっこりと笑った。
「それは……良かったです。
ありがとうございます」
ルヴァは礼を言った。
「?」
翡翠色の瞳はきょとんとする。
「あなたに受け取って頂けて、石も幸せでしょう。
それ以上に、私が嬉しくて、幸せなんですー。
だから、ありがとうございます、なんですよー」
ルヴァは満足げに言った。
「どういたしまして」
アンジェリークは小箱を白い手で包み込んだ。