永遠の春。
美しい昼下がり。
時が止まったかのような時間。
ゆりかごの中、まどろむような楽園。
そして、それにふさわしい印象の青年は、洗練された動作でお茶を淹れた。
無駄のない動作で淹れられた紅茶は、しっとりと深い水色で、ほっこりと湯気が立つ。
マスカットの香りも優雅なダージリンティー。
喜ぶ少女の顔を思い描き、青年――地の守護聖ルヴァは微笑んだ。
銀のトレイに、白磁のティーカップを二客。お客様に合わせて、小皿にはチョコチップクッキー。
ルヴァはいそいそとテラスに向かう。
繊細な白いレースのカーテンがそよ風に揺れる。
風は甘い花の香りを運ぶ。
どの花が咲いたのだろうか、ルヴァは肺いっぱいに空気を吸い込む。
本当に麗しい昼下がりだった。
ルヴァはテラスに続く敷居の前で、ピタッと立ち止まった。
灰色の瞳はその風景を写し取ろうと、見開かれる。
息を吐き出すのもためらう。
至福の時とはこのことだろうか。
柔らかな日差し。
暖かな風。
良く晴れた空。
テラスに出された白いテーブル。
開かれたままの専門書。
書き途中のノート。
緑のリボンがついたしおり。
細いペン。
そこで、まどろむ天使。
蜂蜜色の巻き毛はそれ自体が、ティアラのようにきらきらと光を宿していた。
明るく前向きな翡翠色の瞳は、今は伏せられていて、繊細なまつげが織りなす淡い翳りが頬に落ちていた。
白い小さな手はしっかりとペンを握っている。
ルヴァは少女の眠りを妨げないように注意して、トレイをテーブルの上に乗せ、向かいの席に座った。
ルヴァは、静かに息を吐き出した。
今日は久しぶりに何もない日の曜日。
女王試験が始まってから、何故か日の曜日は何かしらの事件が起きていた。
それらがようやく一段落した、何もない日の曜日。
『平和』な。
そう、間違った表現であることは、十二分に自覚している。
それでも、この単語しか思い浮かばない、そんな日だった。
いつまでも終わることのないように思える春の陽だまりの中、地の守護聖は考える。
エリューシオンを愛する天使様は、努力を惜しまない。今日も育成の勉強のために、ルヴァの元にやってきた。日の曜日の聖殿で、少女に宇宙について教えるようになって、もう何回目だろう。
あまりにもここがあたたかすぎるから、うっかり忘れてしまいそうになる。
何のための異例の女王試験なのか。
地の守護聖は少女の背を見た。
今はまだ羽ばたく前の小さな白い翼……はっきりと見える。
宇宙は十の力で構成されている。
光・闇・風・水・炎・緑・鋼・夢。
守護聖が司る九つの力と、最後の一つは『愛』。
女王だけが持つ純白の力。
思考よりも先に、感覚的に、本能的に、その力を見つけてしまう。
惹かれずにはいられない。
「許してください」
言葉があふれだした。
気がつけば、言っていた。
器からこぼれだしてしまった気持ちは、元に戻せない。
「こうするしか方法はないんです」
青年の声は震えていた。
判決を待つ罪人の気分だった。
いや、ルヴァは罪人だった。
彼は知っているのだ。
知っていて、隠している。
「この宇宙のため」という言葉が、どれほどの免罪符となるのだろう。
知識と知恵の番人である彼にも、わからなかった。
大切な人に突き通す嘘は、苦いだけの酒のようだった。
世界はなんと不条理に満ち満ちているのだろう。
まだ、幼い少女にすべてを委ねなければならない。
全部が終わるまで、秘密にしなければならない。
宇宙崩壊の足音は、すぐそこまで。
耳元でガンガンと聞こえる、宇宙の軋み。
自身を保てないような恐怖と絶望。
日常をこなしている自分が不思議なほどの、危うい均衡。
それでも、ルヴァは言わなかった。
私を許してください……、とは。
言えなかったのだ。
もし、そこまで少女にすがりついてしまったら、この想いは消さなければいけない。
胸の奥底に生まれた恋心を、深遠たる宇宙の水底に沈めなければいけない。
だから、ルヴァは言わなかったのだ。
次代の女王のいち早い即位を望みながら、この少女を守ろうとする想いが綯い交ぜになり、青年の表情に影が落ちる。
女王にふさわしいと思う少女が、最愛の女性とは皮肉な結果だった。
これから先の行動は、わかっている。
彼女を見守り、その支えになり、導いてく。
あの赤い絨毯の先、この世界の極みへと。
宇宙が少しでも、長生きできるように祈って、過ごす日々が待っている。
ルヴァは空を見上げた。
空はやっぱり青い空で、金色の太陽がさんさんと輝いていた。
暗い気持ちにとりつかれているルヴァだけが、のけ者のようだった。
「もう少し前向きになりましょう」
自分に言い聞かせる。
「おとぎ話のように、ハッピーエンドになる可能性だってあるんですから」
口に出してみると、力が湧いてくる。
ルヴァは穏やかに微笑んだ。
淀んでいた昏い空気は流されていき、この地にふさわしい穏やかな空気が戻ってきた。
日の曜日らしい日の曜日。
微かに金のまつげが震える。
そっと翡翠色の瞳が開かれた。
少女はゆったりと上体を起こし、ぼんやりとルヴァを眺めた。
「今、夢を見ていました。
よく覚えていませんが、みんな……いろいろな人がいて、幸せそうに……笑っていたんです」
まだ夢から覚めない翡翠の瞳は、うっとりとしていた。
抑え目なその声は、まるで神がかっているように聞こえた。
「それで……たぶん、未来……だと思います」
天使はささやいた。
『予言』
それは、きっと叶う近い未来。
ルヴァはアンジェリークの言葉を胸にしまいこんだ。
「そうですかー。
きっと、その夢は正夢になりますよ」
ルヴァは願いを込めて言う。
「はい」
アンジェリークは、にっこりと微笑んだ。
翡翠色の瞳が見開かれる。
「?」
青年はきょとんとする。
「ルヴァさま!?どうして起こしてくれなかったんですか!」
少女は耳まで真っ赤にして叫んだ。
「あー、気持ち良さそうに眠っていましたから」
ルヴァは小首をかしげながら言う。
いったい、どこが悪かったのか。
少女の機嫌を損ねてしまったらしい。
青年には皆目検討がつかなかった。
「その……、起こすのがしのびなくて。
つい、見ていまいました」
ルヴァは白状した。
アンジェリークは、急にうつむいた。
「すっかり、お茶が冷めてしまいましたねー」
ルヴァはティーカップにふれて、気がつく。
「淹れなおしてきましょう」
「いいです!
いただきます!」
勢い良くアンジェリークは言った。
「……ですが」
元気の良さに気おされながらもルヴァは言う。
「ルヴァ様の淹れてくださったものですから!」
言うが早いか、アンジェリークは一口飲む。
「ほら、おいしいです!」
全開の笑顔でアンジェリークは言った。
その笑顔のために、自分はこれからもお茶を淹れ続けるのだろう。
ルヴァは確信していた。
「ありがとうございます」
青年は灰色の瞳を和ませた。