「ほら、エルンスト!」
前方を行く少女は駆け出した。
金糸雀色の長い髪が景色にかすむことなく、溶けることなく、自己主張する。
まるで女王陛下のサクリアが顕現する時に見られるという黄金の翼のように。
ここにいるのは新宇宙の優秀な女王補佐官ではなく、ただの十六歳の少女のようだった。
きっと姿かたちが悪いのだろう。
この気温に合わせて、白いコートに身を包み、かつてのように金糸雀色の長い髪を垂らしている。
「天使の羽がつかみたい放題だよ!」
振り返ったレイチェルは笑顔で手を広げる。
健康的に焼けた肌は、一つでも多くの天使の羽を得るようにかざされる。
かつて少女自身の背中にもあったものだ。
あるいは、まだその背中にあるものかもしれない。
女王ではないものの、新宇宙の母系天体の半数を生みだしたのは目の前の少女のなのだから。
宇宙を創造した『天使』の一人には違いない。
不思議な世界に、樹枝六花型の雪が降る。
「そのようですね」
エルンストは言った。
それすら白い塊になった。
手を伸ばさなくても天使の羽はお構いなしに降ってくる。
「願い事ぐらいないの?」
暁色の瞳が好奇心旺盛に尋ねてくる。
「……無事に生還することでしょうか」
エルンストは言った。
祈るような気持ちからの答えだった。
ここは常春の聖地でもなければ、神鳥の宇宙でもない。
――死の空間、だった。
カウントダウンされていく閉ざされた世界。
残り九十日間もない。
銀の大樹が燃えた事件は記憶は、まだ新しすぎる。
一寸先も見えない安らぎすらない闇。
あるのは絶望だけだ。
打開策を見つけなければ、自分の生命が途切れる。
それだけではない。
二つの宇宙は至高の存在を喪うのだ。
それを支える柱と共に。
だというのに、目の前の少女は十六歳の少女らしく笑っている。
「面白みがない」
淡くリップクリームが塗られた唇を尖らせて、文句をつける。
「他の方に当たられてください。
残念ながらあなたを面白がらせるような言葉を持ち合わせていません。
そのことはあなたが一番ご存じでしょう?」
エルンストは淡々と事実を告げた。
人には向き、不向きがあるのだ。
面白いことを要求するのだったら、他に適任者がいたはずだ。
「まあ、エルンストらしい言葉だよね」
気にした素振りもなく、レイチェルは景色の方に向き直る。
いつだって天才の少女は型破りだった。
研究員に多い性質の持ち主であり、最たるものだった。
自分の思考パターンに誰もがついていけると思って、過程を飛ばして、結論を告げるのだ。
「あなたがここを選んだのは意外ですね」
エルンストはレイチェルの隣に並ぶ。
「エルンストがついてくるのも意外だったけどね。
あまり好きじゃないって聞いていたから」
レイチェルは楽し気に言う。
二人がいるのは日向の丘の遊歩道の先。
エルンストにとってみれば、興味深い場所ではあった。
研究員になるまで、陸地ばかりの都市部の土地で暮らしていたせいか、耳慣れない音が聞こえてくる。
樹枝六花型の雪が降る、二つの青が存在していた。
「どこであれ、付き合うと約束しましたから。
天使の広場よりも好ましいと思いますよ」
エルンストは言った。
今頃、天使の広場でさぞかし祭りで賑やかになっているだろう。
「穴場ってヤツだね。
こういう幻想的な景色なんて女王陛下にしか作れないんだろうね」
暁色の瞳は真っ直ぐに景色を見ながら、柵に腕を預けて言った。
もどかしく感じているのだろうか。
姉宇宙との差を見せつけさせられて。
親友である女王の力になれなくて。
立ち止まることすら知らなかった天才も、壁にぶつかったのかもしれない。
女王試験が終了してから三年間。
色々とありすぎた。
そして、それは現在進行形だった。
「あなたはよくやっていると思いますよ」
エルンストは言った。
弾かれたように、レイチェルはエルンストを見た。
朝の始まりだけに一瞬だけ見られるような。
そんな明るい紫の瞳に理知的な光が宿る。
「エルンストにしちゃ珍しい」
「正当な評価をしたつもりでしたが、お気に召さなかったようですね」
女性と子どもというのは扱いが難しい。
その両方を備えている昔馴染みは、輪にかけて気難しい。
自分の周りには、そういう人物たちが集まってくるのか、理解の範疇に越える。
解けない数式を目の前に用意されたような気がしてくる。
「この宇宙は未来なんだよね。
ワタシが聖地を立ち去った後も、こうしてアンジェのことを祝ってくれる。
ロマンだね」
機嫌を取り戻したのかレイチェルは楽しそうに笑う。
「宇宙生成学とは、そういう学問ですよ。
答えを求めても、一生かけても解は出ない」
ためいきになりそうな言葉をエルンストは飲みこんだ。
異例の女王試験に協力者として立ち会えただけでも幸運だったのだ。
新しい宇宙が生まれる瞬間を目にすることができた。
そして、こうしてその宇宙が発展していって、生物があふれ、人々が笑顔で女王を讃える祭りをしている。
閉ざされた世界でなければ、もっと純粋に楽しめただろう。
「人の寿命は短すぎる、って?」
十六という若さ……いや、幼さで時を止めてしまった少女は残酷なことを平然と言った。
無神経さらしさこそ、少女の強みでもあるのだろう。
「私は変わりましたが、あなたは変わってない」
それが普通の人間と聖別された人間の違いだ。
「手間のかかる研究員のままだって?」
「それが尺度というものでしょう」
エルンストは気にせずに続けた。
「ずいぶんと諦めがいいんだね」
「むしろ、こうしてあなたと雪を見ていること自体が奇跡です。
二度と会うとは思ってはいませんでしたから」
「そうだね。
こうしてエルンストといるなんて不思議だよね」
レイチェルは言った。
「本日、ご指名をいただいた理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
エルンストは本題を切り出した。
「消去法だとしたら?」
面白いものでも見つけたように暁色の瞳がエルンストを見る。
二人の身長差は八センチしかない。
少女がヒールのある靴を履いていれば、当然のことながら目線は揃う。
「光栄ですね」
エルンストは端的に答えた。
古い宗教から由来する『純粋なもの』と名付けられた少女に選んでもらえたのだ。
神に捧げられた供物であり、始祖の望んだ妻だ。
「恋路を邪魔したくなかったって言うか。
エルンストだったら、何だかんだと付き合ってくれそうだと思ったの。
それだけだよ」
レイチェルは苦笑した。
どうやら全てを捨ててもかまわない、と思った親友には幸運な相手がいるようだ。
こういう非常時だからこそ、応援したくなるのかもしれない。
エルンストには程遠い感情だった。
「大切な人と過ごす、という伝承があるのに私でよろしかったのですか?」
エルンストは確認した。
少女自身には親友である新宇宙の女王よりも大切な人物はいないのかもしれない。
それでも、なお確認したくなった。
退屈を覚えるような相手と一緒に過ごす時間は、有意義とは思えなかった。
「ワタシは意外とエルンストを大切にしているつもりなんだけど?
この謎を解くパートナーにふさわしいって思っているんだから。
頑張りましょう、主星の王立研究院の主任殿」
レイチェルは破顔して、エルンストの背を勢いよく叩いた。
「お手柔らかに、紫の瞳の女王補佐官殿」
エルンストは苦笑いを浮かべた。
それが合図だったかのように樹枝六花型の雪は止まった。
残ったのは水滴だけだった。
髪や服に残ったものは、儚いものだった。
やがては体温や気温と共に目に映らない空気のように気化してしまう。
一年分の健康と幸せを授かる。
天使の羽とは、それだけ一時のものだったのだ。
樹枝六花型の雪が止んだ世界には、二つの青が見える。
空の蒼と海の碧だった。
耳慣れない音が続く、貸し切りの景色だった。
「帰ったら、髪を乾かさなきゃね。
風邪を引いた、と知られたら笑われちゃいそう」
レイチェルは濡れた金糸雀色の自分の髪を手に取る。
「みな似たり寄ったりだと思いますよ」
エルンストはためいき混じりに言った。
「それはそうかも」
十六歳の少女は悩み事などなさそうに屈託なく笑った。
天使の羽は無事に祈りを届けてくれたようだった。
エルンストの願い事は叶ったのだから。