恋になる日


「小喬は、まだまだ子どもね」
 呆れたような姉の物言いに、少女はカチンと来た。
「お姉ちゃんに言われたくないよ!
 一つしか違わないのに」
 小喬は唇をとがらせた。
「歳のことじゃないわ。
 ちょっと、周瑜様が気の毒になっただけよ」
 よく似た顔立ちが大人びた微笑みを浮かべた。
「どういう意味?」
「小喬は、まだ恋を知らないでしょう?」
「ひっどーい!
 馬鹿にしないでよぉ!
 あたしは、ちゃんと周瑜さまのことが好きなんだからっ!」
「知ってるわよ」
 大喬は微笑んだまま、うなずいた。
「恋だもん!」
「ええ、そうね。
 小喬にとっては」
「どこか違うの!?」
「いつかわかるわ。
 きっと、周瑜様が教えてくれるわよ」
「周瑜さまのこと、ちゃんと好きだもん。
 だから、結婚するんだよ」
 小喬は不機嫌に言った。
「だから私も、孫策様に嫁ぐのよ」
 大喬はにこやかに言った。


 双子のようによく似た外見の、中身が正反対な姉妹は、その日嫁いだ。
 それから、月日は流れて。





 どうしちゃったんだろう。
 昨日の続きは、今日で。
 何にも変わらなくて。
 空はやっぱりきらきらしていて、ぜんぜん変わってなくて。
 今日の続きが、明日で。
 何にも変わらずに、続いていくと思ってた。
 どうしちゃたんだろう。
 いっぱい、いっぱい、謎だよ。
 自分の心なのに、ぜんぜんわかんない。
 どきどきで、ばくばくで、ぐるぐるしてる。
 世界はちっとも変わってない。
 それなのに、あたしだけ変わっちゃった。


 小喬は流れ行く雲を眺める。
 膝を抱えて座り込む少女にとって、咲き競う花々もただの景色だった。
 常ならば微笑みを刻む唇から、切なげなためいきがもれる。
 露にも耐えぬ風情の佳人、煌く夏の庭院で愁う。
 真昼の太陽が、儚げな少女を焦がしてしまうのではないか。
 露のように消えてしまうのではないか……と。
 彼女のお節介な保護者がいたら思ったところだろう。
 人形のように愛くるしい、黙っていれば姉の大喬のようにたおやかな女人だが、それだけではないのがこの少女だった。
 天真爛漫、日の光のように眩く、泣き、怒り、笑う。
 まるでつむじ風か、小さな炎。
 地面に縛られない。
 その少女が庭の片隅で、ためいきをついているのだ。


「どうしたんだ、小喬」
 心配そうな声が少女を振り向かせた。
「周瑜さま」
 小喬は小さくその名を呼んだ。
 青年は膝をつき、少女と視線を合わせる。
「何か、嫌なことがあったのか?」
 周瑜は尋ねた。
 その優しげな微笑みに、ほっと安心するどころか、小喬の鼓動は高鳴っていく。
 居心地の悪さを感じる。
 自分のどきどきが聞こえてしまったら、どうしよう。
 不安は小喬を無口にさせた。
 知られたくない。
 このどきどきも、苦しみも。
 口を開いたら、弱音、言っちゃう。
 だから、少女は口を引き結ぶ。

「小喬?」
 秋の葉のような深みのある色の瞳が、小喬を見つめる。
 泣きたいくらい、苦しい。
 その眼差しが、怖くて、嬉しい。
 両極端な感情の狭間で、小喬は大きく揺れ動く。
 こんな気持ちは知らない。
 すっかり疲れてしまった少女は
「周瑜さま」
 頼りになる青年に抱きついた。
 しっかりと抱きつくと、不安は薄れた。
 しかし、満たされない……さびしさに似た気持ちは強くなる。
「どうしたらいいのか、わかんないよぉ。
 いっぱい、考えたの。
 いつも訊いてばっかりだから、ちゃんと考えたんだよ。
 でも、わからないの!」
 小喬はぶちまける。
 周瑜はその小さな背を慰めるように軽く叩く。
「大丈夫だ、小喬。
 どんなときでも、私がついている」
 あたたかくて、真剣な言葉だったが、少女には足りなかった。

「こんなのあたしじゃないよ。
 ぜんぜん、違うの。
 変わっちゃったの」
 世界は変わらないのに、自分だけが変わってしまった。
 悪いことをしたみたいで、怖い。
 罪なような気がして、感情の振り幅の大きな心をさいなむ。
「小喬は、小喬だろう」
「でも、違うの。
 こんなのイヤなの。
 だって、だって……」
 涙で言葉が詰まる。
 ぐしゃぐしゃに乱れた心は、自分でもわからない。
 それを他人に伝えようとするのは、至難だった。
「だって?」
 周瑜が言葉を継ぐ。
「苦しくて、苦しくて」
 はやく楽になりたい。
 抱きしめられているのに、辛い。
 初めて感じる、名のつけられない感情に翻弄される。

「怖い。
 周瑜さま。
 よく、わかんないよぉ」
 少女は絹の衣をきゅっと握る。
 わからない、わからない。
 ぜんぜん、わからない。
 ぐるぐると色んなことが頭を巡る。
 余計に、意味がつかめない。
「どうすればいいの?」
 小喬は尋ねた。
「一つもわからないのか?」
 青年は困ったように笑う。
「うん。
 いっぱいあって……。
 昨日までは、ぜんぜん同じだと思ってたの。
 でも、目が覚めて……。
 ぜんぜん、ちがうことに気がついたの。
 本当はちょっとずつ違っていたんだけど、今日まで気づかなかったの」
「何が変わっていたんだ?」
 周瑜は少女の頭を優しく撫でる。
「好きってのは、変わらないの。
 でも、今までのは、フツーだったの」
 小喬は自分の心の奥を探るように、伏し目がちに言った。
 とらえようとして、必死に手を伸ばす。
 つかまえる直前にそれは、スルッと逃げてしまう。

「今は?」
 かすかに周瑜の声に動揺が走った。
 それはささやかな変化すぎて、己の気持ちに向き合うのに忙しい少女は気づかなかった。
「今は……。
 今も、好きだよ。
 でも、ちょっと違うの」
 促されて、小喬はつぶやく。
「周瑜さまだけ、違うの」
 答えに近づいていく。
 声に出して、気がつく想い。

「周瑜さまが大好き」

 今まで何回も言った。
 昨日だって言ったし、もっと前にも言っている。
 それらとは違うことは、少女も青年も知っていた。
「そうか」
 周瑜はうなずいた。
「私も小喬を愛している」
 これも何度も、言われた言葉だった。
 けれども、そこに宿る心に、少女は初めてふれた。
 不安はそっと、ほどけていく。
 心臓はどきどきしている。
 でも、イヤじゃない。
 怖くないし、寂しくないし、苦しくない。
 もやもやが形になって、すっきりとした。
 とてもとても簡単なことだった。

「あたし、周瑜さまに恋してる」
 小喬は言った。
 その顔には、軽い驚きと喜びがあった。
「私も小喬に恋しているよ」
 秋の葉色の瞳が優しく微笑む。
「うん」
 それに応えるように、小喬は屈託なく笑った。


真・三國無双TOPへ戻る