「陸遜」
お気に入りの木陰に向かう途中、呂蒙に呼び止められ、陸遜はいぶかしげに振り返った。
今日の用事は全部すんでいるはず。
「姫を知らないか?」
がっしりと筋肉のついた若い男は、困ったように尋ねる。
「どうして私に訊くんですか?」
はしばみ色の瞳を瞬かせる。
「いつも一緒にいるだろう」
決まりきったことのように呂蒙は言った。
「そんなに一緒にいますか?」
少年は社交辞令のような笑みを浮かべた。
「俺が知る限りでは、一番仲が良いように見えるが……違うのか?」
「そうだったら、素敵ですね」
「姫を知らないか?」
「いえ、今日はまだ会っていません」
「そうか」
呂蒙はためいきをつく。
陸遜は、その深さを聞き逃さなかった。
「何かあったのですか?」
「少しばっかり、隠れ鬼だ」
豪快なところのある男性が、ぼやかした。
聡明な少年は理解した。
「……誰のせいですか?」
声が自然と抑えられる。
ふつふつと怒りがこみ上げてくるのがわかる。
自分のことではないから余計に、それは熱く激しい。
「勘が良いな」
「あの方はとても女性らしい、繊細な感性をお持ちです。
それを知らずにからかうとなると……」
心当たりがあった。
そんなことをするのは――。
「まあ、そのー、何だ。
陸遜も探すのを手伝ってくれないか?」
呂蒙は話をすりかえるように提案した。
「はい、わかりました」
「姫を探すんだぞ」
「そんなに念を押さなくても、大丈夫ですよ」
陸遜はニコッと笑う。
院子の中ほどの、お気に入りの木。
枝に大きな葉を茂らせて、陰を提供してくれる。
陸遜はその下に立ち、顔を上げようとした。
「見上げないで!!」
鋭く声が降ってくる。
空を舞う小鳥のように愛らしい声の主は、孫呉の末姫。
やはりここにいたのか、と陸遜は小さく笑む。
安堵とは違う。
誰も知らない彼女のことを知っていることがうれしい。
秘密と呼ぶには他愛のないそれだったが、共有していることが純粋に喜ばしい。
「陸遜。
嘘でもいいから、綺麗だって言って」
尚香の声は必死だった。
追い詰められた彼女の心は、玻璃の盃。
壊してはいけない尊い宝のようにも思えるし、壊してみたいと思うこともある。
それでも、彼女は彼女でいて欲しいから、陸遜は言葉を紡ぐ。
「嘘で良いんですか?」
「え」
「あなたはとても綺麗です。
嘘じゃありませんよ」
いつも思っていることを言葉にする。
『嘘つき』だから、信じてもらえないかもしれないけれど。
伝わらなかったから、せつないと思う。
「本当に綺麗?」
声は疑心暗鬼。
常に彼女は比べられてきたから、江東の二喬と。
そのたおやかさ、淑やかさ、艶やかさを。
「ええ。
どこにいても、何をしていても、どんな姿でも。
あなたの存在が、綺麗です」
綺麗は「奇麗」
すぐれて麗しい、という意。
それは「めずらしい」から、奇麗と書く。
滅多にない美しさを指す。
陸遜は顔を上げる。
そこには、いつになく着飾った尚香がいた。
枝に真っ赤な花が咲いたようだった。
何よりも…………その表情が。
女性らしい……と思った。
「やっぱり、綺麗ですね」
陸遜は微笑んだ。