小鳥のさえずりが、陽光と共に室内を明るくする。
窓辺にたたずむ少女のいくばくかの慰めになっているのだろうか。
庭院の輝き渡る新緑よりも鮮やかな色の瞳は、ぼんやりと外を眺めていた。
色なき風のささやきを聞こうとしているのかもしれない。
この少女らしくないほど、大人しかった。
「お加減はどうですか?」
清涼感のある声が抑えた色で問うた。
孫呉最年少の武将、陸遜だ。
尚香は答えず、外を見続けている。
少年は部屋の入り口で、困ったように微笑む。
無視されたと言う事実が辛いのではなく、そうせずにはいられないという少女の落胆ぶりが辛かった。
話し相手になりえなくても、同じ場を共有することぐらいは許されるだろう。
少女と同じものを目に映したくなって、陸遜は彼女の隣に立つ。
窓枠に左手を乗せ、空を仰ぐ。
どこまでも広がる柔らかな色合いの空。
陸遜の前髪を爽やかな風がかき乱していく。
「私は大丈夫よ」
尚香はぶっきらぼうに言った。
「本当ですか?」
はしばみ色の瞳は少女を優しく抱きしめる。
「少なくとも、あなたよりはマシよ」
ようやく尚香は陸遜を見た。
その瞳は、どんな時でも澄んでいる。と、少年は再確認した。
「面目ありません」
孫呉の時代を担う将は苦笑した。
「こんな時まで笑うのね」
「不愉快ですか?」
「好きではないわよ」
尚香は窓枠に肘をつき、あごを乗せた。
「申し訳ありません」
「でも、そこで謝っちゃうのが陸遜なのよね」
尚香のつぶやきは風が攫っていった。
五日前。
戦火の中、その火に負けない華やかな色合いの戦闘服をまとった少年は、微笑んでいた。
強い緊張感にさらされ、極度の疲労がのしかかっていると言うのに、それでも哂っていた。
炎の朱、血の紅、衣の緋が少年を彩る。
己の血と汗で滑りがちな得物の柄を握りなおす。
あまり良くない状況だった。
一対多数に慣れているとは言え、さばききれなくなってきていた。
一振りが重い。
息が乱れそうになる。
血だまりに足がとられ、物言わぬ屍が邪魔だった。
汗が噴き出す。
返り血なのか、自分のものなのか、それすらもわからない血が気持ち悪い。
思うように動かなくなっていく、右手。
痛みすら麻痺していく。
終わるのだろうか?
ここで果てるのだろうか?
なかなか魅惑的な選択肢だった。
その手を止めればいい。
思うよりも先に動く体。
考えるよりも先に人の生命を吸っていく双剣。
無感動な己。
すべてをここで捨ててしまえば……。
陸遜の後ろ向きな発想をぶった切る人影。
舞うための道具が敵を切り刻んでいく。
窮地を救われた、と理解に到る。
少年はその背を見た。
「姫……」
喉はからからに渇いていたから、その声はかすれてひどいものだった。
「どうしてここへ!」
飛びそうになる思考をどうにかまとめて陸遜は叫んだ。
「それはこっちの台詞よ!」
逆に怒鳴り返された。
赤ばかりの世界で、生き生きとした緑の瞳が美しかった。
その輝きは、一切の曇りがない。
生きることに妥協しない苛烈な魂が陸遜を射抜く。
「さんざん、人に突出するなって!
偉そうに説教した人間が何しているのよ!」
尚香は言った。
「そんなつもりはなかったんです。
結果的にはそうなってしまいましたけど」
無謀、蛮勇、暴走は孫家のお家芸。
敵陣に単身で突っ込んでいくのは、彼女の方が似合っている。
陸遜 「が」 突出したわけではない。
好き勝手に暴れまくる連中の尻拭いをしていたら、孤立するはめになったのだ。
踏んだり蹴ったりとはこのことである。
「援軍には感謝しますが……、どうしてここに来たんですか?」
「私だからよ!」
尚香の潔い言葉に、陸遜は大きく息を吐き出した。
見限ることなどできそうにない。
気持ち良いくらい単純で、呆れるくらい明快で、……慕わしい。
「ああ、納得しました」
「私を無事、本陣まで帰したいなら、努力しなさい!」
「やる気が湧いてきましたね」
陸遜は言った。
少女のためにも、自分のためにも、諦めきれない。
萎えがちな右手を叱咤して、双剣をしかと握った。
「ここは平和ですね」
室内に迷い込んできた胡蝶に、陸遜はゆったりと微笑む。
「戦場じゃないもの」
尚香はつまらなそうに言う。
無防備にさらされた腕に巻かれた包帯が痛ましい。
生還への代価は、いくつかの刀傷と、いくつかの火傷。
皮肉なことに、陸遜よりも尚香の方が支払った額が少し多かった。
「やっぱり、怒ってますか?」
「……。
やっぱりと訊くところがイヤね。
そんなに、わかりやすい?」
緑の瞳がチラリと少年を見る。
「ええ、姫ですから」
陸遜は肩をすくめて見せた。
「意外に根に持つのね」
「記憶力は良いんです」
陸遜はしれっと答える。
ぷつりと会話の糸が切れた。
色なき風が通りすぎ、二人の髪を吹き乱す。
シャラシャラと木の葉がこすれあう音が沈黙を彩る。
不思議と気まずくはない。
このまま、過ごすのも悪くない。
陸遜がそんなことを思っていると、
「良い天気ね。
外に出ましょう。
散歩ぐらい平気でしょう」
尚香は快活な笑顔で切り出す。
差し出された手を右手でつかもうとして陸遜は苦笑して、左手で少女のそれを包み込んだ。
「痛い?」
尚香は陸遜の右手を見遣る。
「時期に治りますよ」
「早く治さないと、次の戦いも留守番になるわよ」
「姫と一緒ならかまいませんよ」
「私はすぐに治して、復帰するわ」
尚武の国の姫は、瞳を勝気に煌かせる。
「では、私も努力しないといけませんね」
陸遜は口元をほころばせた。