緑が一層色濃くなる頃。
輝く太陽が恋しくなり、誰もが空を無言で見上げる。
最も、雨が多い時期のとある日だった。
陸遜は竹簡を抱えて、回廊を渡っていた。
芙蓉を臨む曲がり角、見間違えるはずもない少女がたたずんでいた。
花が開くのはまだ先だから気になって、その背に声をかけた。
「何してらっしゃるのですか?」
「見てわからない?」
不機嫌そうに尚香は言った。
緑の瞳は陸遜を見ず、院子を睨んでいる。
「わからないから尋ねてるのですが?」
少年はためいきをついた。
「雨宿りよ」
ぶっきらぼうに答えが返ってきた。
「雨宿り……」
陸遜は外を見遣る。
景色を灰色にする雨は通り過ぎ、緑はさらに鮮やかになっていた。
まるで少女の瞳のように、きらきらと輝いている。
「言いたいことはわかってるわ」
尚香は言った。
「以心伝心ですね」
陸遜は笑みを零す。
「馬鹿にしているでしょう」
「まさか。
滅相もありませんよ。
姫の心の中に、負い目がある証拠です。
それで、こんなところで何しているんですか?」
「雨宿りしていたの。
でも、もう理由にならないわね」
尚香は大きく息をついた。
「そうですね」
「陸遜、仕事中なんじゃない?」
緑の瞳は初めて、少年を見た。
陸遜は自分の思い違いを訂正した。
院子の緑を抱えきれないほど集めても、この瞳には足りない。
少女の瞳はもっと美しい。
「ええ」
「何しているの?」
「雨宿りです」
陸遜はしれっと答えた。
雨はまだ降り出す気配はない。
「……呆れて物も言えないわ」
「じゃあ、今しゃべっているのは?」
少年はまぜっかえす。
「ものの例えよ」
やや尖った高い声がそれに応じる。
「それぐらい、わかっています。
雨がやんで残念です」
陸遜は肩をすくめる。
「さぼる口実がなくなった?」
「いえ、あなたと一緒にいる理由がなくなりました。
もう少し、一緒にいたかった」
「嘘っぽいわ」
「心からの言葉ですよ」
「信じないわ」
「慣れてます」
陸遜は笑った。
「何で、こんなときまで笑うのよ」
優しい弓腰姫は、眉をひそめる。
「そう思うなら、同情してください」
同情でも良いと思うほどには病んでいる。
わずかでも気が引けると嬉しい。
独り占めしようと思っても、なかなかできない。
だから、できるだけ二人っきりで、一緒にいたい。
「寝言は寝てから言いなさい」
「気をつけます」
怒った顔も可愛らしいと陸遜は思った。
パラパラと軽い音が地面を打つ。
埃がかすかに舞って、独特な匂いが広がる。
「嫌な感じね」
緑の瞳は本当にとらえておくことができない。
少女の最大の関心事は、陸遜から天気へ移ってしまった。
「そうですか?
私は天に感謝しているところなんですが」
「つくづく思うわ。
私たち、気が合わなすぎるわね」
「ご存知ですか、姫」
どこまでも真摯な声が言う。
「?」
「恋というものは、正反対の性質の人ほど激しく落ちるそうですよ」
「何が言いたいの?」
「一般論です」
陸遜は微笑んだ。
「あら、そう。
どんなものにも例外はあるわよ」
我慢の限界だったのか。
尚香は院子に飛び出した。
万緑叢中紅一点
院子の草花の中、少女の鮮やかさに適うものはない。
雨の雫は、天然の飾り玉。
景色自体が彼女の装飾品のようだった。
「雨宿りするんじゃなかったんですか?」
「もう十分よ」
そう言うと、少女は院子の奥へと駆けていく。
使いの途中である陸遜は追いかけるわけに行かず、その背を見送った。
雨がやんでいるときに雨宿りをして、雨が降り出したら外へ飛び出る。
「変わった人ですね」
陸遜はつぶやいた。
少女がたたずんでいたその場所に、立ってみる。
はしばみ色の瞳が少しばかり見開かれる。
葉陰の中、芙蓉の蕾があった。
「これを見ていらっしゃったんですね」
それで、と陸遜は納得した。
『見てわからないの?』
そう問うた少女の気持ちに近づけた。
「ここに立たなければ、わかりませんでした。
想像力が足りていませんね」
少年は苦笑した。