人気のない院子に書簡で呼び出されて、陸遜は深く考えずに向かった。

「嘘つかないでね」

 呼び出した人物は陸遜を見すえる。
 黄昏に彩られた孫呉の弓腰姫は、怖いくらいの迫力があった。
 一切の妥協も許さない燃える緑の瞳。
「はい」
 陸遜はうなずいた。
「絶対よ」
 尚香は念を押す。
「そんなに私は信用がありませんか?」
 陸遜は困ったように微笑む。
「ええ。
 陸遜は嘘つきだから」

「……そんなに嘘をついてますか」
「今も、そうよ」
「?」
「自覚ないの?
 いつも、笑っているじゃない。
 そうやって」
 少女の手が伸びて、陸遜の頬をなでた。
 鍛錬を欠かせないせいか、妙に硬くなっている手のひらは女性らしくなかった。
 華やかな美貌とあいまって、それが残念に思われた。
「まるで、拒絶されてるみたいだわ」
 高く澄んだ声が鋭く言った。
「そんなつもりはないんですけれど」
 少年は微苦笑する。
 すっと少女の手が離れる。

「一度しか訊かないわ。
 だって、女々しいもの」
「そんなに頑固に決めなくても良いと思いますよ」
「決めたことは守る主義よ」
「姫らしいですね」
 小さく笑ったまま、少年は言った。
「ねえ、陸遜」
「はい」
 陸遜は返事をする。


 少女に名前を呼ばれるのが、好きだった。
 たとえ、それが元の名前と違ったものだとしても。
 いや、違うからこそ、尚香に呼ばれるのが好きだった。
 彼女の声が名を綴ると、とてもそれが神聖なものように思えるのだ。


「後悔していない?」
「何に、ですか?」
「全部よ」
 尚香はこの世界全てを示すように手を広げる。
 白く細い腕が夕日に照り映える。
「とりあえず、今のところ後悔していませんよ」
 陸遜は答えた。
 今の生活に大きな不満はなかった。
 強いてあげれば、目の前の少女の調子がいつもと違うところだろうか。
「なら、いいわ。
 変なことを訊いてごめんなさい」
「何かあったのですか?」
 陸遜は尋ねた。

「特に、何かあったわけじゃないわ。
 ただ……、私が無知だっただけ」
 悲しげに尚香は微笑んだ。
 風に揺れる院子の花々のように、儚げな微笑だった。
 消えてしまいそうな雰囲気に、陸遜は不安を感じた。

「ねえ、陸遜。
 笑って。
 幸せそうに笑って」
 高く澄んだ声に涙がにじむ。

「姫?」
「本当はわかっていたの。
 でも、やっぱり。
 ……我がままを言っていいのなら、知りたくなかった。
 だって、私たちは陸遜に謝らなきゃいけないもの」
 少女の言葉で、少年は理解した。
 彼女は知ってしまったのだ。
「私の父のことですか?」
 陸遜は確認した。
「ええ」
 尚香はうなずいた。



 院子に風が駆け抜けた。
 名残の雪柳の白い花弁が風に舞う。
 地の果てに沈もうとしている太陽が最後に投げかける光線が、辺りをきらきらと縁取っていた。
 二人の間を白い小さな花弁が埋め尽くそうとする。



「そのことでしたら、お気になさらず。
 よくあることです。
 誰かが悪いわけではありません。
 後悔していませんよ」
 陸遜は微笑んだ。
「嘘よ!」
 間髪入れずに否定される。
 自分の信用のなさに、陸遜は苦笑いする。
「本当です。
 今を否定する気はありません。
 どんな過去であれ、過去があるからこそ、今につながっているんです。
 だから、後悔していません。
 私は自分で決めたんです、この未来を」
 陸遜は言い切った。

「じゃあ、どうしてちゃんと笑わないの?」
「笑っていませんか?」
「いつも辛そうだわ」
「辛そうな顔をしているのは、姫のほうですよ。
 私が笑えないのは、孫家のせいではありません。
 我慢することに、少しばかり……慣れすぎてしまったみたいです」
「余計に悲しいわよ」
 感情豊かな少女の瞳には、大粒の涙がたまっていた。
「私は天に感謝しなければなりませんね。
 こうやって、自分のことに一生懸命になってくれる人に出会えた。
 後悔していません。
 そんなことをしたら、もったいない」
 少年は少女の手を取った。
 ゆっくりと伝わってくる優しさに、陸遜は穏やかな笑みを浮かべる。

「陸遜の馬鹿」
 尚香はうつむくと、そう言った。
 つないだ手の上にぽたりぽたりと、白い珠が落ちる。
 そのあたたかさに、陸遜の孤独は癒されていく。
「はい」
 陸遜はうなずいた。


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