「尚香、あなたもそろそろ年頃ね」
「へ、母様?
何の用?」
唐突の母の訪問に、尚香は途惑った。
「孫家に代々伝わるおまじないを教えようと思ったのよ」
「そんなものあったのね」
尚香は栗の皮をむきながら言う。
緑の瞳はそちらに釘付けだ。
色気よりも食い気。
尚香は、その言葉が良く似合う孫家の小姐(お嬢様)だった。
「ええ。
気になる人がいるのでしょう?」
「え?」
全くもって見当がつかない。
「そんなときに使うおまじないなのよ」
もったいぶりながら、母は孫家代々のおまじないを尚香に伝えたのだった。
気持ちの良い秋風が吹く日。
いつもの木陰で、少年は読書にいそしんでいた。
その姿は学者の卵のようで、名のある将軍には見えなかった。
かろうじて脇に置いてある双剣が、彼の名を思い出させる。
「陸遜〜!」
「姫」
はしばみ色の瞳が尚香の方を向いた。
「戦に出るんですって!」
尚香は断りもせずに、陸遜の横に座る。
「え、ええ。
今度、呂蒙殿にご一緒させていただくことになりました。
ついていくだけですけどね」
弱々しく陸遜は微笑む。
「本当に行くのね」
「はい。
山賊討伐は何度か経験がありますが……。
ちゃんとしたという表現もおかしいのですが、ちゃんとした戦場に行くのはこれが初めてですね」
陸遜は言った。
その声音はいつもと変わらず、穏やかなものだった。
気をつけなければわからないような、ささやかな違和感。
尚香は、不思議と気がついてしまった。
「不安なの?」
少女は問うた。
一瞬、少年の面に緊張が走る。
「そんなことはありません」
陸遜は否定した。
真っ直ぐに見つめ返してくるその瞳には、嘘など微塵もないようだった。
「無事に帰ってこれるおまじないを教えてもらったの。
尚武の孫家に伝わるものなのよ」
「孫子ですか?
ご利益がありそうですね」
陸遜はかすかに笑む。
「だから、目をつぶってくれない?」
「いいですよ」
少年は素直に瞳を閉じる。
尚香は深呼吸をすると、思い切っておまじないを実行した。
陸遜の頬に、自分の唇を押し当てたのだった。
パチッとはしばみ色の瞳が開く。
頬を赤く染め、尚香を見た。
「どうして、目を開けちゃうのよ」
「す、すみません。
つい……びっくり、したもので」
陸遜はあわてて謝る。
「もう、知らないんだからっ!」
気恥ずかしくなって、尚香は立ち上がった。
「姫っ!」
少年は少女の腕をつかんだ。
一瞬でも早く、ここを立ち去りたい尚香にとってはいじめである。
「離してよっ!」
心の中は、後悔の嵐だ。
しなければよかった。
そうしたら、こんなに心臓がドキドキすることもなかったし。
グルグルと眩暈がすることもなかったし。
耳まで熱くなることもなかったし。
「必ず、生きて帰ります。
姫の元に」
陸遜は真摯な眼差しで告げた。
尚香は絡め取られてしまったように、離れられなくなってしまった。
へたりとその場に座り込む。
「約束よ」
「はい、約束です」
陸遜はうなずいた。
呉と蜀が戦う20日前のお話。