それはあまりにも渇望し続けたものだった。
その平等さに、嫌悪感を覚えるほどに。
「陸遜!」
今日も良く通る声が名を呼ぶ。
曇りのない声が、自分の名を呼ぶ。
それは確かな幸せだというのに、胸の奥底に淀むこの気持ちは何なんだろう。
「今日は、大喬とお菓子を作るの」
初夏の煌きのように、輝かしい笑顔。
孫家の末妹が笑いかける、自分に。
「楽しみですね」
そう言いながら、陸遜は感じる。
不機嫌になっていくもう一人の自分がいることを。
「今度は大丈夫よ。
失敗作は食べさせないわ」
尚香は宣言した。
「どんなものであっても、姫が作ったものなら、ご馳走ですよ」
陸遜は本心を述べた。
「言ったわね!
ちゃんと、美味しいものを作ってみせるわ!」
尚香は緑色の瞳を勝気に輝かせて言い放つ。
「はい」
陸遜は穏やかな笑みを浮かべると、うなずいた。
それはあまりにも平等だった。
誰に対しても、彼女は笑いかけ、名を呼ぶ。
まるで、空に輝く太陽のように……。
夕刻。
陸遜が執務をしていると、
「はい、陸遜」
大皿を抱えた尚香がやってきた。
皿の大きさに合わないほど、小さなまんじゅうが載っていた。
「少なくなっちゃった。
さすが、大喬よね。
みんなもらっていくのよ。
ひどいと、思わない?」
私一人が作ったときは、みんな食べてくれなかったのに。
そうぼやきながら、尚香は卓の上に大皿を乗せた。
「この前は、陸遜だけね。
食べてくれたのは」
尚香は肩をすくめた。
「ちゃんと、焼き菓子の形をしていましたよ」
陸遜は苦笑した。
「今度は、砂糖と塩を間違えたりはしないわよ」
バツ悪そうに尚香も笑った。
「美味しかったですよ」
はしばみ色の瞳は真剣に少女を見つめる。
「陸遜の美味しかったは、あてにならないわ。
どんなものでも言うんですもの。
その後に他の人に勧めて、毎回後悔するの」
高く澄んだ声が、さらに甲高くなる。
「そうなんですか?」
「みんな、マズイっていうのよ。
で、自分で食べてみて、失敗に気がつくの」
「姫の作るものなら、どんなものでも美味しいですよ」
「ほらね。
だから、あてにならないの」
「作ってくださるという気持ちが嬉しいんですが……。
不快ですか?」
「いつまでも、料理上手になれないわね。
甘えだわ」
尚香は言った。
「今日のは、力作よ。
今のところ、文句は一人しかつけていないわ」
誇らしげに尚香は言う。
料理上手とはいえない彼女にとっては、会心の作なのだろう。
「誰が文句を?」
陸遜は確認した。
「凌統よ。
甘すぎる、って言われたわ」
「ああ、そうなんですか」
陸遜はうなずいた。
「夜道に気をつけるように言っといたわ」
「どうしてですか?」
「彼も孫呉を支える将の一人ですもの。
ケガをされると困るわ」
「何故、そう思うのか尋ねてもよろしいですか?」
「自分の胸に手を当てて考えてみなさい」
「ああ、わかりました。
そう言うことですか……。
かんぐりすぎですよ」
「足りないぐらいだと思うわ。
だから、これを味見してもらえるかしら?」
尚香は微笑んだ。
最後の一つ。
その事実が、何ともいえない感情を呼び覚ます。
余りもの、である。
この大皿には、たくさんのまんじゅうがあったのだろう。
大きさに見合うだけの。
たくさんのまんじゅうをみんなが食べて、その残り。
公平に配られた、それ。
自分のためではない。
「美味しそうですね」
「ええ、もちろん。
ちゃんと、味見はしたわ!」
「では、いただきます」
陸遜は立ち上がり……。
さくらんぼのような唇を掠め取った。
大きな瞳がさらに大きくなり、陸遜を見つめた。
「ごちそうさまでした。
確かに甘いですね」
陸遜はニッコリと笑った。
「な、何をするのっ!」
「口づけしました」
「私は、おまんじゅうを持ってきたのに!」
「平等なものは嫌いなんです。
誰に対しても公平なのは、何もないよりも残酷ですよ」
陸遜はささやいた。
「最低ね」
「今ごろ気がついたんですか?」
「最悪だわ」
「ええ、そうですね」
罵倒されるのが心地良い。
これで期待しないですむ。
彼女は離れていくだろう。
その平等さに、苛立つことはないだろう。
ささやかな幸せを壊してしまうほどに、焦がれていたのだ。
「どうしてくれるのよ!
初めてだったのに!
……憧れぐらい人並みにはあったのよ。
それなのに」
緑の燃える瞳が陸遜を睨む。
陸遜は微笑を崩さない。
「嬉しいって思う自分がいるのよ!」
尚香は怒鳴るように言った。
「え……?」
陸遜は目を瞬かせる。
「つまりはそう言うことよ。
鈍感ね、それでも軍師なの?」
尚香は赤面しながら、悪態をつく。
「そうみたいですね」
陸遜は言った。