春真っ盛りのある日。
孫尚香は麗らかな春の日差しの下、のんびりと日向ぼっこをしていた。
そこにニコニコ笑顔で近寄ってきたのは、我が軍の俊才。
燕帝こと陸遜だった。
「姫」
「あら、陸遜。
暇そうね」
「隣、よろしいですか?」
「ええ、もちろん」
「私が暇だと嬉しいのですか?」
尚香の隣に座ると、陸遜は尋ねた。
「嬉しいわよ」
尚香はニコッと微笑んだ。
「平和の証拠でしょう?」
「そんなに私は物騒ですか?」
陸遜は困ったように微笑んだ。
「そう言うわけじゃないわよ。
軍師様が暇なのは、戦がないからよね。
良いことでしょ?」
「あまり、暇だと首にされてしまいそうですね」
「そんなことないわよ。
陸遜は優秀だから」
「皆さん、そうおっしゃってくださいますが……。
ずいぶん、重たい荷物ですよ。
私はそれを落とさないように、必死に努力しているのです」
陸遜は天を仰ぐ。
その横顔は、いつになく真剣だった。
「そうは見えないわよ」
「でしたら、成功ですね。
私の演技もまんざらではありませんね」
また、いつもの陸遜に戻って、彼は微笑んだ。
「今日は何の日だか知ってますか?」
ふいに陸遜は言った。
「どんな、嘘をついても許される日でしょ?」
尚香は覚悟した。
つい忘れかけていたが、今日は4月1日。
目の前の少年は、嘘が大得意なのだ。
「ええ、ですから。
今日は嘘をつきません」
陸遜は断言した。
「どうして?」
「たまには良いでしょ?」
「そうね。あなたは嘘つきだもの。
たまには、そういう日があっても良いわね。
でも、ずいぶんと殊勝だわ」
「ええ。
もうすぐ、姫とはお別れですから。
良い記憶が一つくらいあったほうが、いいと思ったんです」
陸遜は幾分か、寂しそうに言った。
「どこかに行くの?」
「はい。
ですから、もう姫と会えません」
「会えないってことはないわよ。
また、戦場?
勝ってくれば、良いだけじゃない」
暗くなりがちな話題を、尚香は笑い飛ばした。
「そうですね。
生きていれば、またお目にかかることもできるでしょうが」
はしばみ色の瞳は、常よりも深みを増す。
「そんなに危険な戦場なの?」
「そうですね。
ある意味、最も危険な戦場です」
重々しく陸遜は口を開いた。
「魏とやりあうの?
それとも」
尚香の言葉に陸遜は力なく頭を振る。
こんなに弱々しい彼を見たのは初めてだった。
「大丈夫よ。
陸遜なら、絶対大丈夫!
今までだって、大丈夫だったんだし。
これからだって、きっと」
気休めにしかならない言葉たち。
「ありがとうございます」
陸遜は儚げに微笑んだ。
無理をして笑っているのは、誰の目から見ても明らかだった。
「姫の言葉で、少しは未来が見えてきました」
「陸遜……」
「これから、殿に諫言に行くのです。
もしかして……いえ、殿の機嫌を損ねることは目に見えています。
ですが、私はこの孫呉の地を愛しています。
私の命一つで、殿が考えを改めてくれるのなら安いものです」
陸遜の口調は普段の快活なものに戻っていた。
「私も行くわ!」
「いえ、大丈夫です。
最後に、姫とお話ができて良かったです」
陸遜は立ち上がった。
「待って、兄様だって。
陸遜を殺すはずないわよ。
すごく、陸遜のことを頼りにしているし」
尚香も立ち上がり、歩き出そうとする陸遜の手を掴んだ。
「陸家のことを快く思っていない方も多いんです」
陸遜は少女の顔を見ずに言う。
尚香は言葉に詰まった。
かといって、この手は離せない。
離したら、もう会えない気がした。
新緑色の風が二人の間を通り過ぎる。
沈黙を葉擦れの音が埋めていく。
陸遜は振り返ると、微笑んだ。
「もう少し、人を疑うことを学んだ方がよろしいですね」
「え……。
ま、まさか……。
嘘つかないって、言ったじゃない!」
尚香は陸遜の手を離すと、怒鳴った。
「嘘をつかない、という嘘をついたんです」
涼しい顔をして少年は言った。
「信じちゃったじゃない!」
「でも、殿のところに行くのは本当ですよ。
たぶん、不機嫌になるのも……近い未来です。
まあ、殺されることはないでしょうけど」
陸遜は言った。
「信じられないわよ」
「私が殺された方が良いんですか?」
陸遜は大げさに驚いてみせる。
「好きにしなさい!
もう、知らないんだからっ!」
尚香は顔を真っ赤にして叫んだ。
今日は陸遜の言うことは全部、信じない。
「そんなあなただからこそ。
私は好きなんですよ」
少年はその背を少しかがめると、尚香の耳元でささやいた。
「信じないから」
尚香はつぶやいた。
「でしょうね。
今日は4月1日ですから」
「騙されたら、馬鹿じゃない」
「上手いこと騙されてみません?」
はしばみ色の瞳が優しげに尚香を見つめた。
「今さら、そんなこと言ってもムダよ」
「ええ、でもあなたはとても素直な方ですから。
いつか、信じていただけると思ってます。
そろそろ、軍議に行かなければなりません。
失礼いたします」
陸遜はそう言うと、きびすを返した。
「そう言うことは、明日言いなさいよ!」
その背に向って、尚香は言葉を投げつけた。
陸遜は振り返り小さく笑った。
「じゃあ、再挑戦しますね」
そう言うと、軽やかに陸遜は立ち去った。
「もう。
調子が良いんだから」
ほてる頬に手をあてて、尚香は小さく言った。