「尚香!」
嬉しそうに次兄の孫権は、末妹を呼んだ。
ご自慢の武器の手入れをしていた尚香は、その手を止めた。
「紹介しよう。
新しい配下の陸遜だ」
兄の後ろには小さな少年がいた。
尚香と同じくらいの年齢の、まだ幼さの残る顔立ちの男の子は、はにかむように笑っていた。
澄んだはしばみ色の瞳と視線が合う。
尚香はニコッと笑った。
「よろしくお願いします」
陸遜はにこやかに言った。
「尚香よりも一つ下だが、頼りになる将だ」
「それで兄様、彼が私の新しいお目付け役?」
「馬鹿者。
陸遜は、我が軍の主戦力だ。
お転婆娘のお守りをさせる訳にはいかない。
そうでなくても、人材不足なのだ」
「そうなの?
わざわざ連れてきたから、てっきりそうだと思っていたわ。
つまりは新しい部下が嬉しくて、見せびらかしに来ただけなの?」
がっかり、と尚香はつけたす。
「そうだ」
子どものように孫権は笑った。
「あなたも大変ね」
尚香は陸遜に笑いかけた。
「いえ、そんなことはありませんよ」
陸遜は穏やかに否定した。
ずいぶんとのんびりした性格ね。
呉でやっていけるのかしら?
と、尚香は思った。
急ぎ足で駆け抜けていこうとする初夏のある日。
「姫」
呼び止められて、尚香は不機嫌な顔をした。
気持ち良く散歩していたのを邪魔されたからではない。
姫と呼ばれるのが好きではないのだ。
姫と呼ばれるほど、おしとやかではないし、美しくもない。
そう呼ばれるたびに、女らしくしなければならないような気がするのだ。
まるで、今の自分を全否定されている気分になる。
「あら、伯言。
一人なの?」
「ええ、お使いの途中なんです」
陸遜はにっこりと微笑んだ。
手には竹簡がいくつか。
また、戦争でもするのだろうか?
戦いは嫌いではないが、知人がケガして帰ってくるのは嫌いだった。
「伯言は、兄様のお気に入りね」
「そうでもありませんよ。
ところで、姫。
私のことは陸遜と名でお呼びください」
陸遜は言った。
「どうして?」
名を呼び捨てにしていいのは、親や君主だけだ。
尚香でも知っている常識だった。
「そうしなければ、忘れてしまいそうになるのです」
風景に溶けていくようなとは、このことだろうか。
曖昧な微笑を浮かべた陸遜には、存在感というものが感じられなかった。
「名前なのに?」
軽い不可解を覚え、尚香はいらついた。
「ええ」
「変わってるわね。
じゃあ、私のことを姫って呼ぶのやめてくれる?」
交換条件よ、と尚香は笑った。
「もったいなくて、できませんよ」
陸遜はサラリと言う。
「一方的だもの」
「姫は、姫です」
陸遜は訳のわからない理屈を言った。
「理由になっていないわよ」
「私には充分な理由ですよ」
「姫って呼ばれるのが嫌なの。
似合ってないでしょう?」
「思い込みですよ。
あなたが思うよりも、ずっとあなたは美しく、女性らしいと思いますよ」
「根拠は?」
「世間の風評を気にするほどには、繊細な心をお持ちでしょう?
少しぐらい型破りでも、私はかまわないと思いますよ。
孫呉の誇る弓腰姫、素敵な名前ですね」
陸遜は言い切った。
「そうかしら?」
尚香は渋々、納得しようと努力した。
それから、しばらくして。
尚香は、一つのことを知った。
陸遜は元は陸議という名前で、呉に来るにあたって、その名前を改名したことを。
親からもらった大切な名前を孫呉に下るために、変えたことを。
それを知った頃には、陸遜は陸遜で、彼から『姫』と呼ばれるのが不快ではなくなっていた。