結婚するらしい……。
らしいってのは、ついさっき聞いたばかりだから。
自分が結婚するなんて、全く持って想像したことがなかった。
迂闊だと言われればそれまでだ。
……ずいぶん前からこの話はあったに違いない。
何せ来月には式を挙げるというのだ。
急なんてもんじゃない。
優柔不断そうに見えて策略家な兄を恨む。
小競り合いの絶えない今、駒扱いされるのは仕方がない。
良家の娘が生まれたからには、当然のこと。
納得している、理解している、でもイヤ。
ためいきが自然とこぼれ、胃の辺りがムカムカしてくる。
大股で進むのはお気に入りの木陰。
午後の礼法の講義は自主休講することに決めた。
イライラしながら向かうと先客がいた。
少年と青年の狭間にいるような若者。
木陰で彼は竹簡を広げて読み耽っていた。
彼のお気に入りの場所も、またここなのだ。
いつもの昼下がり。日常……。
私は変わってしまったのに、彼に日常は変化がないように思えて、余計イライラが募る。
指定席にペタンと腰を下ろす。
彼は気がつき顔を上げ、微笑んだ。
いつものように……。
「今度は何があったんですか?」
穏やかな問いかけ。
「結婚するの」
ズバリと言った。
彼の澄んだ榛色の瞳は和やかな光を湛えていたままだった。
……動揺は見られなかった。
だから、悲しいくらいに確信してしまう。
「いつから知っていたの?」
睨み付けるが、彼は気にした風でもなく、遠くの空を見上げる。
「半年ぐらい前にそんな話が出始めて……、話が本格化してきたのはここ一月です」
「どうして教えてくれなかったの?」
「口止めされていましたし、実現がこんなに早いとは思いませんでした」
横顔が困ったように微笑んだ。
「兄さまに口止めされていたからって」
わたしは唇を尖らせる。
彼は兄に仕えているのだから、兄の命令は絶対だ。
そんなことは知っているし、分かっている。
イライラが増える。
気になっていることは、もう一つある。
確かめるのは、気が進まない。
……予感があるのが、怖い。
「わたしの結婚に賛成なのね」
念を押す。
「ええ、もちろんです」
笑顔の肯定。
鈍器で殴られたような、鈍い痛みが走る。
「結婚したくないって、知っているわよね?」
声が震えているのが、自分の耳に響いておかしな気分だ。
「ええ」
彼はうなずいた。
ずっと仲が良かった彼まで賛成だなんて……信じられない。
「どうして、わたしが結婚しなきゃいけないのよ」
愚痴る。
結婚したら今までの自由はどこにもなくなってしまう。
絹で作られた牢獄で夫にかしづかなければならない。
今のように風を感じることはできなくなる。
太陽の光を浴びて走ることもできなくなる。
息の詰まるような暮らしが待っている。
「一度ぐらい経験しても良いと思いますよ」
彼は微笑んだまま言った。
「イヤよ。結婚したら、髪を伸ばして、絹の裳を引きずって歩かなきゃいけないのよ。
今みたいなカッコは、もう許されない」
「平気ですよ」
「馬だって乗れなくなるわ。
トロトロと馬車で移動しなきゃならないのよ」
「そんなことないですよ」
「外出だってままならなくなるし。
庭に出るのにも許可がいて、お供がゾロゾロと付いてくるのよ」
「考えすぎですよ」
「それに、武芸の鍛錬だってしたらいけないのよ。
もっと女らしくしなさいって言われて、下手くそなのに繕い物とかする日々が待っているに決まってる」
「大丈夫ですよ」
「一番イヤなのは友達と遊べなくなることよ!
絶対、ダメって言われるわ」
「そこまで心配しなくても……」
「絶対したくないわ!
今よりも不自由になることは分かってるんだから!」
「今まで通り自由にすればいいと思いますよ」
彼は微笑んだ。
「そんな心の広い男がどこにいるのよ!」
わたしは怒鳴った。
彼のあまりの無関心振りが、悲しくなってきた。
「目の前にいますよ」
「……?」
意味がよく分からない。
彼はのんびりと読み終わった巻物を端から巻いていく。
カシャンカシャンと竹が音を紡いでいく。
「あなたは今まで通り、あなたらしくいてください。
普通ではない結婚生活を送るぐらいの覚悟はできていますから」
彼は言った。
「!
もしかして、わたしの相手って!」
「私です」
さらりと言われたものだから、一瞬息をするのを忘れたぐらい驚いた。
「だから、賛成なんです。
こんな幸運、手放す気にはなれません。
役不足かもしれませんが私で妥協してくれませんか?」
彼は提案した。
驚きながらも、わたしはうなずいた。
彼は幸せそうに笑った。