「あの駻馬を見事に乗りこなせる者がいるのならば、くれてやろう」
ためいき混じりに、孫権は言った。
宴もたけなわ、半ば無礼講と化したときのことだった。
戦の功労者たちはさざめくように笑いながら、遠慮した。
思わずこぼしてしまった孫権も苦笑いする。
広間の中央では孫権の妹、孫尚香が見事な剣舞を披露していた。
女だてらに、と言うよりも生まれてくる性を違えたとしか思えない。
確かに二人といない美姫であろう。
柔らかそうな赤みがかった茶色の髪。
くりっとした緑の双眸。
しなやかな肢体、服の上からでも見て取れる曲線。
誰もが感嘆のためいきを漏らすほどの溌剌とした美少女だ。
しかし、最前線で多くの武勲を挙げてくる男顔負けの武将なのだ。
いくら殿の妹御であっても……。
あのように気が強いじゃじゃ馬では。
それが一般的な意見だった。
「その役目、私にお任せいただけないでしょうか?」
喧騒が静まった。
孫権の碧眼が名乗りを上げた将に注がれる。
宴の片隅、一際小さい人影。
最年少の武将であり、軍師でもある陸遜だ。
聡明そうな眼差し。
「好きにするがいい」
孫権は言った。
その口元には笑みがあった。
「ありがたき幸せにございます」
陸遜は深々と礼をした。
この話は瞬く間に広がった。
もちろん当人である孫尚香の耳にも届いた。
「陸遜!」
馬の足音と共に澄んだ女性の声が、彼を呼び止めた。
書簡を抱えていた青年は立ち止まる。
「姫!」
陸遜は穏やかに微笑んだ。
尚香は手綱を引き、馬を止める。
「話、聞いたわよ」
咎めると言うよりも、呆れたと言う口調で彼女は言った。
「あなたもその辺の男と同じだったのね。
そんなに出世したいの?」
無邪気な問いかけ。
自分の求婚者に向けるとは思えない、あっけらかんとした物言いだ。
実際、尚香は陸遜のこと男として見ていない。
ありありと態度に出ていた。
陸遜は曖昧な微笑を答えにした。
「そう簡単にあなたのモノになるなんて思わないでよ」
宣言にも近い言葉を残すと、尚香は馬を走らせた。
その背を見送りながら陸遜はつぶやいた。
「これは、手強いですね」
「よお、軍師さんよぉ。
ちっとも、馬は変わってねぇように見えるんだが」
甘寧はニヤニヤと笑いながら、陸遜の肩を叩く。
その反動で青年は竹簡を落としそうになり、慌てる。
甘寧の言いたいことは分かる。
むしろ一同の代表でやってきたのだろう。
ただこの男が来ると、自分が賭けの対象になっているような気がしてならない。
「馬に乗り手が合わせることに決めたんです。
あれだけの名馬ですよ。
自由に走らせてあげないとかわいそうでしょう?」
竹簡を抱え直しながら、陸遜は穏やかに微笑む。
「おいおい、それでいいのかぁ?」
甘寧は呆れる。
あの宴からもう月が満ちて、欠けた。
人の恋路を邪魔して馬に蹴られる気はないが、あまりにのんびりとしているとかまいたくなる。
甘寧はそう言う質の男だった。
「まずは馬の信頼を得ることが先決ですから」
キッパリと陸遜は言った。
甘寧は尻上がりの口笛を吹き、肩をすくめた。
「陸遜って、わたしが何をしてもニコニコしているのね」
妙に感心したように尚香は言った。
「不愉快ですか?」
「ちょっと、不思議。
馬に乗っても文句言わないし」
緑の瞳の美姫は言う。
「馬と駆けるあなたは素敵ですから」
「?」
「とても自由で、風のようで、まるで天女のようで。
いつまでも見ていたいような気がするんです」
陸遜は楽しそうに言った。
尚香は思わず赤面する。
「そんなこと言っても、騙されないんだから!
失礼するわ!」
尚香は立ち去った。
「本当のことなのに」
陸遜はつぶやいた。
「あー、もう、調子が狂う!」
尚香は叫んだ。