それはある日、突然に。
きっとうだるような連日の暑さと、主君のうっとうしさが……。
もとい、粘着度……。
いやその、なんだ。
暑苦しさが、張儁艾のように軽やかにツーステップを踏みながら、和音を奏でたりなんかしたのが、良くなかった。
……たぶん。
「仲達、仲達とうるさいですわね。
そんなに『仲達』がよろしいなら、仲達と結婚すればよろしかったんじゃありません?」
いくつになっても麗しい夫人がにこやかに言った。
愛想笑いと縁遠い人間が、にこやかに笑ったときほど壮絶な美が宿るものはない。
くそうるさいセミの鳴き声がぴたりと止むナイスタイミングで、ホラー映画風味に夫婦喧嘩(?)は始まった。
「どうしたのだ、甄?」
「我が君。
仲達、仲達、仲達!
と、うるさいんですもの。
私、本妻の座に固執しておりませんから、どうぞ。
仲達を嫁にもらってはどうですの?」
甄姫は『仲達』を強調しながら言った。
「嫁も何も、仲達は男だろう」
曹丕は真剣に言った。
本人は、ごくごく真面目である。
自分の妃が何に機嫌を損ねたのか。
1ミクロンほどにもわかっていなかった。
「……。
私と司馬懿殿、どちらが我が君にとって価値がありますの?」
「価値?
どちらも大切だ。
比べること自体が間違っている」
頭の良い青年は、全く持って気づかなかった。
思わずくだらない問いかけをせずにはいられなかった妻の気持ちなど。
まるで、浮気を問い詰められた亭主の言い訳のようなことを言う。
「じゃあ、どちらか一方を選べと言われたら、どうなさいます?」
甄姫は問いを重ねる。
「仲達の代わりになるようなものはいない」
言葉はまだ続いていたが、曹丕は最後まで言えなかった。
何故なら。
夏の暑さがもたらす幻覚のように。
曹丕は麗しい笛の音で夢の世界に連れていかれてしまったからだ。
「というわけで、どうすれば良いと思う?仲達」
「どーして、そんな展開であなたはここに来るんですかっ!?」
「来てはいけなかったのか?」
「当たり前ですっ!!」
司馬懿は怒鳴る。
「私にはわからぬのだが」
「早く、甄姫様のところへいって、謝ってきたらどうですか!?」
この暑さにやられているところに、犬も食わない夫婦喧嘩の相談を持ちかけられた魏の軍師は、不機嫌だった。
バカップルの喧嘩の相談なんて、ノロケと同じ。
聞いてるこちらが暑くなるというもの。
「謝る?
悪いことをこれっぽっちもしていないのに、私が謝るのか?」
プライドだけなら、伝説の山『泰山』並みの青年である。
難色を示した。
「ええ、あなたが謝るんです!」
「どうしてだ?
悪いことをしていないの謝罪をするのは、理にかなわないだろう」
大真面目に、曹丕は言った。
曲がったことは大嫌い。
そう考えるように、思考を洗脳したのは間違いなく自分たちかもしれないが、このときばかりは飲み込みの悪さを天に呪った司馬懿だった。
「そんなことは、どうでも良いんです!!」
「どうでも良いとは、どういことだ?」
「わざわざ、言葉尻をとらえないでください!!
よーく、聞いてくださいね。
夫婦喧嘩をした場合、夫が謝るのです。
これは古来から定められているしきたりで」
「……夫婦喧嘩。
そうか、あれは夫婦喧嘩だったのか。
良い響きだな」
青年は嬉しそうに言った。
「無駄にうっとりしないでください!」
司馬懿は話をちっとも聞いていない教え子に注意を入れる。
「良いですか?
昔から決まってるんです!
これは天意です。
男が謝るんです」
司馬懿は言い含める。
夫婦喧嘩に巻き込まれるのは、金輪際! にしてほしい。
「なるほど。
昔から決まっているのか。
しかし、ついぞ聞いたことがなかったが」
「親から子で口伝えで、伝わることですからね。
きっと、傾国の美女を手に入れたあなた様に嫉妬して、先代があえて伝えなかったのでしょう」
「そうか。
父が……。
そんな狭量な人間とは思えないのだが」
「つい、してしまったのでしょう。
人間ですから!」
「ふむ。
そう言われると説得力があるな。
では、謝りにいこう」
曹丕はそわそわとしだす。
「殿!
そのときに注意が一つあります」
「なんだ?」
「その、まあ、何ですか。
『お前が一番大切だ』と、付け足すと効果的です。
女性は一番でいたがるものですから」
司馬懿は言った。
「そんな当たり前のことを言わなければならないのか?」
けろりっと青年は言った。
この言葉と表情を、ぜひとも夫人に知ってほしい、と司馬懿は思った。
むしろ、この1シーンだけで、世の女性陣は満足するのではないだろうか。
当然のことすぎて気づきもしなかった、と青年の雰囲気は嫌になるほど能弁だった。
「ええ、そんな当たり前のことを言ってやるのが夫の務めです。
女性というのは、とても繊細で。
少しのことで不安になるものですよ」
司馬懿はためいき混じりに言った。
「わかった。
努力する」
曹丕はうなずいた。