「父に字で呼ばれるたびに思うことがある」
何の気なしに青年は話し出した。
その視線の先の空よりも、ずっと薄い色の瞳が玻璃越しの何かを見ていた。
見ているのに見ていない。
空を見上げるというのは行動は、思索にふけるにはちょうど良いのかもしれない。
側にいた男は思った。
「私は、子桓なのだな」
曹丕は言った。
成人すれば、子は親に字をもらう。
以後、周囲はそれを呼ぶ。
名を呼ぶのは不敬なのだ。
主君か、親以外は、名を呼ばぬのが古来からの慣わし。
「私は、丕ではなく、子桓なのだ。
再確認する」
青年は淡々と言う。
激することが稀な若者であったから、珍しいことではないが、妙に気にかかる。
「父にとっては」
曹丕は言った。
重くもない、軽くもない、ありきたりな声の音で。
ただ『言った』だけ。
それが男の心に引っかかった。
司馬懿はまじまじと青年を見た。
「私は子桓であるべきなのか?」
質問の形を借りた、これは何なんだろうか?
司馬懿は困惑した。
何かを肯定して欲しいのだ。
迷っている。
背中を押せ、と頼まれているのだ。
だが、無闇なことはできない。
欲しい言葉をきちんと提示しなければならない。
本人すらわからぬ言葉を、他人が探し出すのには労力がいる。
一朝一夕ではできぬ。
二重の意味が取れる言葉に、
どちらにも「正しい」回答を出さなければならないのだ。
「あなたがあなたであることは、天の意。
振る舞いを変える必要はありますまい」
司馬懿は無難な答えを言った。
『正解』ではないことぐらいわかっているが、そうとしか言えなかったのだ。
「私は私の道を行くとしよう。
丕と名づけられたのだからな」
青年はぽつりと言った。
「御意」
司馬懿はためいきをかみ殺した。