ダブル・バインド


「あれは元気にしているか?」

 唐突な言葉だった。
 似たもの親子だな、と尋ねられた人間は思った。
 回廊の途中、司馬懿は礼をしながらその言葉を聴いた。

「あれとは?」
 知っていながら、慇懃無礼に訊いた。
「子桓のことだ」
 曹操は言った。
 頭を下げている司馬懿にはその表情を見ることはできなかったが、見当がついた。
 口元にかすかに笑みを浮かべ、灰色の瞳には皮肉げな色の光が宿っているだろう。
 笑みではない。
 失笑。
 笑うつもりではなかったのに、何となく笑ってしまった。
 微苦笑という表現がしっくりとくる、そんな表情。
 教え子がよく浮かべている表情だった。

「僭越ながら、申し上げます。
 我が子なのですから、ご自分の目で確かめられてはどうですか?」
 そんなことをするはずはない、と理解しながら司馬懿は提案した。
「何のために、お前をあれにつけたと思っている。
 会ったら、意味がなくなる。
 そんなこともわからぬほど、その頭は鈍くなってしまったのか?」
 だとすると、その首を挿げ替えねばならぬな、と魏王はつぶやくように付け足した。
「時には、親子の情を確かめるのも悪くはない、と思っただけです。
 出すぎた真似をいたしました」
 司馬懿はさらに頭を下げる。
「情など確かめる必要はなかろうよ」
 曹操は言った。

 二通りの意味が含められた言葉に、司馬懿は内心でためいきをつく。
 どちらの味方になるつもりはないが、立場ゆえんか己は曹丕寄りなのだ。
 これでは、あまりにも「冷静」ではないか。
 曹魏の主としては、申し分のない答え。
 だが、人の子の父としては――。

「曹丕殿は、お変わりのない……。
 いえ、奥方を目に入れても痛くないほどの溺愛をしております」
 司馬懿は答えた。
「覇よりも、か?」
 曹操は静かに尋ねる。
 
 辺りの空気がスッと凍る。
 一切の音が消えてしまったように、己の内の早鐘だけが鳴り響く。
 張り詰められて緊張感の中、司馬懿は顔を上げた。
 不遜を気にせず、魏王を見た。

「曹丕殿も、人間です」
 司馬懿は言った。

 曹操は機嫌良く笑った。
「そんなことは、おぬしよりもわしの方が知っておる。
 この程度の意見を言うのに、震えているとはな。
 魏の軍師になれぬぞ」
 鍛え上げられた鋼のような色の瞳が、人間らしく和む。
「子桓を頼む」
 改めて、曹操は言った。

 その言葉に、司馬懿は心から頭を下げた。


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