天河が西を渡る頃。
唐突に意識がはっきりとした。
急速に覚醒していく身体に、常にはない不安を感じた。
指の先まで血が通っていることがわかるほど、意識が研ぎ澄まされる。
途惑いを覚え、曹丕は目を開けた。
夜明け前の室内は暗いが、常とは異なる状態であることは、すぐに理解した。
傍らにあったはずのぬくもりがなかった。
人がいたこと示すように、布団はかすかに沈んでいたが、暖かさはなかった。
ずいぶんと長い間、そこは無人となっていたようだった。
青年は眉をひそめた。
気配を探るが、それらしい輝きはない。
蒼い焔と讃えられる双眸に、一瞬ためらいが浮かぶ。
が、それはすぐさま打ち消された。
寝台をするりと抜け出すと、曹丕は長袍を肩に引っ掛ける。
誰にも見咎められずに抜け出る場所など、限られている。
青年は足早に向かった。
彼は気がつかない。
何故、心が揺れているのか。
そんなに苛立ちを覚えるのか。
誰がために、強い感情を思い出したのか。
全く、気がつかなかった。
庭院で、その輝きを見つける。
青年は無意識に、息を吐き出した。
「甄」
己が妻の名を呼ぶ。
「我が君。
まだ、起きるには早い時間ですわよ」
甄姫は微笑んだ。
それは!と、声に出す前に我に返る。
自分らしくもない。
いったい、どうしたというのだ。
曹丕は自分自身に困惑する。
「そなたこそ、何をしていた?」
青年は冷静な声をつくった。
「一度聞いてみたい音がございましたの」
クスクスと笑いながら、甄姫は曹丕の傍に参る。
かすかに衣擦れの音が青年の耳をくすぐる。
夜だけにしか咲かない花の香りが、なよやかな肢体から匂う。
「ですから、それを聴きに」
甄姫は言った。
「酔狂だな」
「我が君ほどではございませんわ。
探してくださったのでしょう?
女一人のために、供もつけずに、魏の公子が。
私は果報者ですわね」
飴色の瞳が曹丕を見つめ返す。
そこには挑むような光はなく、純粋な喜びが満ちていた。
「そのようだな」
曹丕は認めた。
たかが、女一人のために、真剣になった。
その事実が、不可思議だった。
困惑は、気恥ずかしさに変わる。
曹丕は視線を逸らした。
「何の音を聴きたかったのだ?」
そんなもののために、自分は振り回されたのだ。
答えをきちんと知っておきたかった。
「もうすぐですわ」
甄姫は、はぐらかす。
東の空が白みはじめた。
星々は天に溶けていき、世界は生まれたての太陽を迎える準備をする。
緑がかった雲は、本来の白さを思い出し、景色はその煌きを呼び覚ます。
ぽん
小さな小さな音だった。
意識していなければ聞き落としまうほど、わずかな音。
真っ白な光に包まれた世界で、ぱっと開く紅。
曹丕は妻の横顔を盗み見る。
真の喜びに満ちた笑顔だった。
これまで見た表情の中で、一番美しいものだった。
誰よりも美しい女人の、最も輝いている笑顔。
自分を振り回してくれた「そんなもの」に曹丕は目をやる。
少しばかり感謝を込めて。
理想郷もかくや、と言わんばかりに、咲き初めた蓮の花。
そのほとりで、若い夫婦は、しばしの時を過ごした。