似合い


「お前だけは言わなかったな」

 ポツリと魏の皇帝は言う。
 不思議な色の瞳は、ぼんやりと宙を眺めている。
 思い出に浸っているのだろう。
 気楽なものだ、と司馬懿は思った。
 それと同時に、珍しいこともあるものだ、と思った。
 司馬懿が「何がですか?」と問うことを待っているのだろう。
 生憎と期待に応えてやらなければならない義務はない。

「殿、こちらを」
 司馬懿は新しい上奏文を曹丕の卓に乗せる。
「急ぎの用だそうです」
 面白くなさそうに青年は竹簡を手に取った。
「何故、言わぬ?」
 蒼い焔と美称される瞳が司馬懿を鋭く見つめる。
「何のことでしょうか?」
 ためいきをついた後、痩躯の男は尋ねた。
 青年は目を細める。
 かなり満足したのだろう、しぐさ一つで司馬懿は理解した。
 腹立たしいことだが、青年のしぐさから大まかな感情を読み取ることができるようになってしまった。
 命の恩人であり、仕えている主君とはいえ、気位の高い司馬懿にとって快いことではなかった。
「お前の口からは聞いたことがない」
 青年は言う。
「どのことでしょうか?」
 司馬懿は訊いた。

「甄のことだ」


「そうでしたか?」
 司馬懿は記憶をたどる振りをして、外へと視線を投げる。
「ああ、聞いたことがない。
 何か言うことはないのか?」
 声の調子から楽しんでいることがわかる。
 本当に手の負えない教え子である。
 引き合わされたときは、すでに大きく、もう自分というのものを持っていた。
 司馬懿が教えたのは、司馬家に代々伝わる学問ぐらいなもので、教師というよりは遊び相手といったほうが正しかった。
 もちろん、主が曹丕で、従が司馬懿だ。
 新しい悪巧みをする際は、必ず巻き込まれた。
 あまり楽しくない記憶だった。

「では月並みに。
 玉のような肌、花のような美貌の皇后。とでも言えば満足していただけますか?」
「そう思っているのか?」
「いえ、一向に」
 痩躯の男はすまして答えた。
 青年が求める答えはこれではない。
 知っていてわざと言ったのだ。
「多くの者は、甄に良い顔をしない」
「残念なことですね」
「噂のほとんどは根も葉もないものだから、甄も否定しない。
 そのために、面白おかしく広がっていく」
 曹丕は言う。
「放っておけばよろしいのではありませんか?
 所詮、浮言です。
 そのうち、消えるでしょう」
 痩躯の男は黒羽扇をゆったりとあおぎながら言った。

「耳障りなことばかりさえずる小鳥を殺してみたいと思ったはことはないのか?」
 剣呑なことを、天気の話でもするかのように、あっさりと言う。
 もともと、生命を軽んずるところがある性質だ。
 やりかねない、と確信してしまう。
 冷淡なのだ。
「そのような小鳥を初めから飼いませぬ。
 人の口には戸は立てられません。
 ここは寛容に構えていらっしゃるのが上策」
 皇后の悪口を言うものを片っ端からとらえたら、牢獄はすぐさまいっぱいになるだろう。
 処刑台の血は乾かず、挽歌が絶えず響く世になるだろう。
 乱世に逆戻りだ。
 ゾッとするような未来だった。

「その中で、お前の言葉を聞いたことがない」
 曹丕はようやく本題に入った。
「流言を流すほど、この仕事は暇ではございませぬから」
「だから、一度訊いてみたいと思ったのだ」
「皇后として、その美貌、その心根、その才能、足りておりましょう。
 あなたの隣にふさわしい女人であり」
 司馬懿はそこで言葉を切った。
 教え子を見る。
「得がたい女人です。
 天があなたを皇帝にするために遣わした天女やも知れませぬ」
 痩躯の男はためいきをついた。

 色々と噂が途絶えぬ皇后だ。
 やっかみがほとんどだが、真実に迫っているものがないとはいえない。
 それでも、この青年には大切な存在なのだ。
 たとえ、どんな者であっても、魏皇帝のかけがえのない存在であれば、司馬懿にとっても大切な人間となる。
 この大地の安寧のためにも、存在し続けてもらわなければ困る。
 一度覚えた恋着は、容易には捨て去ることなどできぬ。
 蓮池ほどの恋情を抱えていることを、聡い教え子は気づいていない。
 もしかしたら、省みることなく未来へと走っていってしまうのかもしれない。
 それはそれで良いのかもしれないのが……。

「本心か?」
 青年の質問で、司馬懿は現実に引き戻された。
 他人から寄せられる心配など、うっとうしいだけだろう。
 司馬懿は胸のうちで苦笑した。
「その辺の女よりも、あなたに似合っていますよ」
「良い意味でもらっておこう」
 曹丕は微かに笑った。
 感情の出にくい青年の「幸せ」を意味する表情だった。
「はい」
 珍しいこともあるものだ、と司馬懿は思った。


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