夏の夜が静かであることは稀。
空が晴れていればなおのこと。
夏虫たちは、その切ない歌声を響かせる。
『あなたが欲しい』と、命を削って歌う。
『私に気がついて』と、魂の叫びを音にする。
この夜も、静かではない刻を迎えた。
魏の女主人は、庭院を歩く。
白い裳裾が闇に映え、光を残す。
探しているわけではない。
呼ばれた、といった方が正しい。
甄姫は確かに「呼ばれて」庭院に来たのだ。
甘く濃厚な香りがする。
夜にだけ花を開く、真っ白で小さな月橘の香りだ。
その香が庭院を染め上げている。
昼とは違う印象の庭院に、青年が立っていた。
甄姫を呼んだ人物。
星影だけに縁取られたその姿は、いっそ儚いほど。
男性に対して思うことではないのは承知だが、それでもこの感情に名をつけるなら。
それは「綺麗」だろう。
無造作に青年は振り返る。
生まれながらの洗練されたしぐさ。
ためいきがこぼれるほどの典麗な動作だった。
人の目を集めずにはいられない、それを甄姫は再確認した。
彼は「夫」であり、「我が君」と仰ぐにふさわしい器の持ち主だった。
「甄、か」
色素の薄い色の瞳が甄姫を見た。
心躍るような喜びが、泉のように湧きだす。
「我が君に呼ばれたような気がしました」
甄姫は高鳴る鼓動を鎮めようと、できるだけ抑えた声音を選ぶ。
「呼ぶ、か。
そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれないな」
謎かけのような言葉を青年は言った。
女にしては学にふれてきた方だが、やはり女。
高度な謎かけは、もとになる知識の幅の狭さから、解くのは容易ではない。
もし、これが何かからの引用だった場合、甄姫は理解することができないだろう。
それが悔しいと思う。
知で役に立つことはできないのだ。
「このような場所で、何をなさってたのですか?」
甄姫は尋ねた。
曹丕はかすかに笑む。
「月を見ていた」
甄姫は空を仰ぐ。
銀に煌く星々があるだけで、そこに夜の主の姿はなった。
「目でとらえられぬものは信じられない性質か?」
心を透かしたような問いかけに、
「いえ」
甄姫は慌てて否定の言葉を口にする。
「今宵から豊かになっていく月を描くのは容易だ。
己の内にそれはあるからな。
それを考えていた」
曹丕は言った。
無自覚に、誰もがなしえないことを、何の努力もなしに、成し遂げてしまう。
その素晴らしさに甄姫はためいきを禁じえない。
「私は愚かでございますから、ない月を空に描くことなどできません。
私の出来ることといったら、月を想って笛を奏でるだけです。
それぐらいのことしか、できませんわ」
甄姫は寂しげに笑う。
こんなに傍にいるのに、距離が離れている。
考えていることも、バラバラなのだ。
一つになりたい、とこんなに想っても。
綺麗すぎて……遠い。
「そなたは笛に託すか。
一つ、聴かせよ」
「御心のままに」
甄姫は竹製のそれを吹く。
戦に立ち続ける武器としての、鉄笛ではなく。
柔らかな笛本来の音がする、竹製の笛を奏でる。
夏虫の恋の歌のように。
月のない夜を想う。
明日になれば月は空に姿を見せるだろう。
一巡りしたら、夜は再び月を喪う。
天と地が分かたれて以来の盟約。
それでも、寂しく想うのは何故だろう。
明日への約束があるというのに、今宵が切ないのは。
どうして物思いにとらわれるのだろう。
望月の頃が、恋しい、と想う。
その理由は。
思いのままつづられる笛は、のびのびと、魂の色そのままに世界に広がる。
形式など存在しない、即興ゆえに、それは甄姫の内面を余すことなく表現する。
静かに始まった演奏は、静かに終わった。
最後の一音が、ひっそりと虚空に溶けていく。
夏虫との合奏は、独奏に戻った。
「神の住まう地を知らないが、このことだろうな。
苦しみも、悲しみもない。
甄の笛の音は、濁りがない」
曹丕は言った。
甄姫は途惑いを包み隠して、微笑みを浮かべる。
「過分なお言葉ですわ」
「あるのは『哀』であったな」
色素の薄い瞳が甄姫を見つめる。
息を吐き出すのももったいない幸運に甄姫は落ち着かなくなる。
「月は明日になれば、また昇る。
それでも恋しく想うのは、月の明るさを知ってしまっているからだ。
私も、また。
記憶の中を探していた」
曹丕は甄姫の手を取る。
「私だけの月光を」
青年はささやいた。
甄姫は今まで、どれだけ称えられただろうか?
花に、玉に、仙女に、精霊に。
この美貌を褒められたことだろう。
ありきたりだった。
『月』
だなんて。
実に聞き飽きた美辞麗句だった。
それでも、嬉しい。
どんな綺語よりも……。
一番、嬉しい。
月のない夜、夫はどんな気持ちでここに立っていたのだろうか。
空を見上げその心のうちに、月を探して。
そして、『月光』だと言ってくれたその気持ち。
涙がこぼれるぐらいの強い喜びだった。
「お役に立てて光栄ですわ」
甄姫は笑みをつくる。
この想いの全てが伝わると良いと願いながら、
「我が君。
愛しています」
甄姫は言った。
曹丕はかすかに肩を落とした。
長い前髪で表情が隠れる。
ぽつりとつぶやかれた言葉を、甄姫は聞き落とさなかった。
「私も、だ」
夏虫たちの恋の歌がにぎやかな庭院。
月を喪った夜に。
そこに『月』を見つけたのだった。
お題配布元:「空が紅に染まるとき」
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