「何を望む?」
唐突に若き公子は言った。
また、始まった。とその側に控えていた細身の男は思った。
まるで獰猛な禽のように鋭い目が、教え子を見る。
この強大な曹魏の跡取りと目される青年は、父譲りの色の瞳を隠して、何やら考え事をしていた。
ろくなことではあるまい。
司馬懿はためいきをかみ殺した。
書卓の上には、書きあがったばかりの詩。
適当にあった竹簡にさらさらと書きつけられただけだというのに、それは体裁が整っていた。
過不足のない「詩」
まるで目の前の青年のように、足りないものなどないような……実につくりものじみたものだった。
「仲達よ。
お前の望みは、天下か?」
曹丕は司馬懿を見た。
その視線、その声。
感情というものが見えない、色のないものだった。
真意が問えない。
物事は準備を整えたとおりに進まないと、落ちつかぬ男は途惑う。
内心の焦りを隠そうと、司馬懿は黒羽扇をゆったりとあおぐ。
「ええ、曹丕殿の天下を、楽しみにしています」
司馬懿は視線を逸らさずに、言った。
研ぎ澄まされた剣のように冴えた色の瞳が、淡々と向けられる。
「どちらでも良い。
ということか……。
お前らしい答えだな」
青年は、口元をゆがめるように笑う。
「はぁ」
「人は己の欲に忠実に生きている。
それは、頑強なほどに」
曹丕は竹簡の文字を指先でなぞり始める。
剣を持って戦うとは思えないほど、細い指先が黒々した墨をなぞる。
「私はそういったものを見抜くのが得意、らしい」
「嘆くものでもありますまい」
「だが、人を喜ばすのは大変だな」
文字を追う指先が止まる。
その文字は鬱陶思君未敢言の『思』で止まっている。
「あなたを思っているのに、胸が苦しくて未だ言えないでいる」
七言律詩で、全ての末尾で韻を踏んでいる。
凝りに凝った作品だが、その一文だけは違って見えた。
もっとも、自分の勘など当てにはならぬことを司馬懿は知っている。
芸術方面は、早々と切り捨ててしまった才だ。
「お前を喜ばすのは、簡単だ。
天下を取り、人民にくだらないほど退屈な平和を与えれば良かよう?
それと、それを継ぐ後継を得ること……か?
仲達が望むのはそのようなことだ」
違うか? と、こちらを見ずに問う。
「はい」
己の望みとやや形が違うものの、その外枠は大きく異ならない。
的確に捕らえていると言って良いだろう。
司馬懿はうなずいた。
「父の望みは、覇を進むこと。
決して、王道ではない。
……、前時代的なものに憧憬を抱いているようだな」
曹丕は言った。
全てを見通すかのようなその観察眼に、司馬懿は驚いた。
天は「王の器」を正しく生み落とした。
目の前の青年が玉に飾られた椅子に座ったとき、史家がうなるような治世が始まるだろう。
「……甄の望みがわからぬ」
それだけがポツリと寂しくつぶやかれた。
奇妙なぐらい、その言葉が浮いていた。
司馬懿はまじまじと曹丕を見た。
「どうすれば喜ぶか、わからぬ」
曹丕はためいきをついた。
「……。
お見受けする限りでは……。
鴛鴦も恨むほどか、と」
司馬懿は呆気にとられながら、言葉をつむぐ。
一風変わっているものの、非常に仲が良い夫婦だ。
断言ができるほどに。
「何を贈れば、甄は喜ぶだろうか?」
真面目に曹丕は言った。
どう言い逃れようか、司馬懿は考えをめぐらすが妙案が浮かばなかった。
「……では。
その、順当に。
あなたにとって一番価値のあるものを贈ったらどうでしょうか?」
観念して、司馬懿はありきたりなことを言った。
「考えておこう」
曹丕はそれきり口を閉ざした。
※作中の漢詩は曹丕「燕行歌」から
お題:配布元「丕甄的20題」
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