目の前に出されたものに、甄姫は少なからず衝撃を受けた。
動揺するなという方が無理であろう。
まだ目すら開かぬ赤子が無造作にぽんと置かれたのだ。
甄姫は若い夫を見上げた。
冴え冴えとした美貌の男の妻になってまだ半年。
こうして彼の行動に驚くのは何度目だろうか。
寝所の贅を凝らした布団の上で、赤子が泣く。
「この子どもは?」
甄姫は声が上擦らないように気をつけて、尋ねた。
「私の子どもだ」
平然と子桓は言い放つ。
甄姫は、どう言って良いかわからなくなった。
他の女に産ませた子ども、と言うことだろうか。
青年には、自分の他に妻と呼ぶような女はいないはずだ。
その寵愛は己一人のものだと信じ込んでいた。
だが、目の前に現実があった。
通うような女がいたこと、その女に先を越されたこと。
心の中で不満がわだかまっていく。
しかし、甄姫は正妻だ。
落ち着いて対応しなければならない。
「可愛らしいですわね」
甄姫は赤子を抱き上げた。
子を産んだ経験はないが、子守をした経験ぐらいはある。
難しがる赤子をあやす。
この子どもには何の罪もない、と納得しようとした。
「そなたの子どもである」
子桓は言った。
甄姫は眉をひそめた。
それはつまり、この子どもを嫡子として育てるということだ。
これから先、甄姫が何人子を持とうが、この赤子が夭折でもしない限り、跡取りにはなれないことを意味していた。
「いささか、この子の母がかわいそうですわね」
甄姫はそれでも微笑をたたえたまま、夫を見つめた。
「さあ、どうであろうな?
存外喜んでいるやも知れぬ。
殺されても仕方のない命だからな」
子桓は甄姫の隣に座り、赤子の手をつついた。
揺れる灯燭の中、色素の薄い瞳が和やかな光を宿す。
「どういう意味ですの?」
滅多に見られない夫の穏やかな表情に、甄姫はドキリとした。
「そのままだ。
この者は、我らの子になることで命拾いをした」
青みがかった灰色の瞳が甄姫を見つめた。
「そなたが嫌なら、捨ててこよう」
淡々と青年は言った。
愛情深く見つめた子どもをこともなげに殺すと言う。
「この子は何という名ですの?」
甄姫は尋ねた。
この子を夫に殺させてはいけない、と感じた。
きっと後悔するだろう。
その後悔に気がつかないで、青年の心は深い傷を負うだろう。
避けなければならない事態だった。
甄姫はあの日、全身全霊で仕えると決めた。
その心まで守ってこそ、意義がある。
「叡と名づけろと言っていたな」
勝手なことだ、と子桓は苦々しくつぶやいた。
その様子から甄姫は名付け親を知る。
「父はこの者を天子にするつもりだな」
叡とは『天子』に関する事柄の尊敬語。
「我が君の子どもですもの。
当然ですわ」
「……なるほど」
子桓の名の『丕』もまた、天子を意味する漢字だった。
「そう言う考え方もあるな。
今のうちに、存分に抱いておけ。
すぐさま引き離されるのだからな」
「?」
「父が手元で育てるそうだ」
青年の視線は燭台に移される。
甄姫は愁うその横顔を見つめた。
「残念ですわね」
うとうとと眠り始めた赤子を抱く腕を強めた。
「次は私の子が欲しい」
子桓はつぶやいた。
違和感を覚えて、甄姫は目を瞬かせた。
そう、まるでこの赤子が自分の子ではないような言い方をしている?
勘繰りすぎなのだろうか。
「子を抱く姿も悪くはないな。
甄の産む子どもなら、さぞや美しいだろう」
青年はそう言うと、妻の華奢な肩を抱き寄せた。
「天帝様次第ですわ」
甄姫は笑う。
「そうだな」
子桓はそう言うと、妻にくちづけた。
それから数年後。
甄姫は美しい娘を産み、その娘は東郷公主と呼ばれた。