あたたかな手


 静夜に柔らかな笛の音が渡る。
 冬の月のように、晧い色の響き。
 優しすぎて、逆に責められているような気がした。
 声をかけるのがためらわれて、子桓は立ち尽くした。
 夜目にも鮮やかな朱色の欄干に手をつき、ためいきを零した。
 密やかに始まった演奏は、豊かな余韻を残して宙に解けた。
 馨しい花の香りが子桓の傍らに、そっと寄り添う。
 色素の薄い瞳は、妻を見返した。

「我が君?」
 甄姫は穏やかに微笑んだ。
 欄干を挟んで、二人は見つめあう。
「私がそなたを愛する理由なら、星の数ほど思いつけよう」
 子桓は苦い想いを味わう。
 ないものを求めるのは愚かしい、と知る。
 けれども、探してしまうのは何故だろうか。
 自分だけの手を。
「しかし、そなたが私についてきた理由が見つからぬ」
 青年は声を落とす。
 己の弱さを曝け出して、みっともない、と理性が言う。
 同情でも、あたたかな優しさが欲しかった。

「まあ、我が君らしくありませんこと」
 微笑を浮かべたまま甄姫は言った。
「弱気な私はおかしいか?」
「いいえ、安心しましたわ。
 人間らしくて」
 甄姫は子桓の手に、己の手を重ねた。
 白く柔らかな手はあたたかかった。
 年下の夫を見上げて、甄姫は言う。
「正直、不安でしたの。
 あなたは強いから。
 一人で道を歩いていってしまうのではないかと、私を置いていってしまうのではないかと。
 私の存在を思い出していただけて光栄です」
「自分一人の天下など、面白みはないだろう」
 子桓は苦笑した。
 覇道は孤独。
 そうは言っても、一人でなしえるものではない。
 一つの思想の下に、多くの者の祈りがあってこそ、作り上げられる繊細な氷細工。
 昼の陽射し一つでたやすく消え去るものだった。

「我が君は完璧ですもの」
「だとしたら、見掛け倒しだな」
「私、嬉しいんですのよ。
 あなたの心にふれられて」
 惜しみなく注がれる気持ちは、慈愛。
 子桓が飢えていたものだった。
 それが手に入った。
 気持ちはこんなにも近くにあった。
 じんわりと喜びが胸に広がっていく。
「それで、答えは?」
「そんなにお知りになりたいのですか?」
「他ならぬ、甄の心だからな」
「私の気持ちは決まってますわ」
 極上の楽の音が明るく綴る。
「言葉になるまでは、信じられない」
 欲張りな子桓は言った。
 間違いではないと、確認したかった。
「ずいぶんと臆病なんですのね」
「そうだな」
「我が君をお慕いしているから、私はどこまでもご一緒いたします。
 いつまでも、お傍においてくださいね」
「もちろんだ」
 子桓は甄姫を抱き寄せた。
 生涯忘れぬ夜になりそうだった。


 他の誰でもない、ただ一人の想い人。
 何度でも落ちる恋も悪くない。
 この手を離さないと、月に誓いを立てた。


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