春の到来を待つ季節。
天空は銀の煌きに彩られて、眩しいほどだった。
子桓は立ち止まった。
夜風に乗って、柔らかな音色が渡る。
おそらく竹製のそれの音色は、心まで凍えるような寒さをそっと溶かす。
春の香りがした。
子桓は笛の音の持ち主を驚かせないように、院子に出る。
予想通りの人物がそこに立っていた。
天の透明の玻璃でこしらえた器に、銀の月の光を集めて魂の核にした。
美しい天女が笛を吹いていた。
羽衣を失った天人の音色は、天上の楽の音。
地上にあってそれは、至高の玉となり、心を潤す清らかな泉となる。
子桓は、己の妻に見蕩れた。
一曲終わり、甄姫は微笑んだ。
「お仕事は終わりましたの?」
「ああ。
見事な笛の音だな」
子桓は素直に賞賛した。
「まあ。
褒めていただくような、たいそうなものではありませんわ」
甄姫は謙遜した。
瞳をやや伏せて、うつむく。
艶やかな髪がサラリとその動作に従い、花の香りをまく。
そのしぐさ一つ一つが、色香があって華やかだった。
「褒美を贈ろう。
あの夜空に輝く星をすべて集めて、そなたの髪飾りにするとしよう」
冷たい銀色の星に劣らぬ地上の星、金剛石を削りだして造ったそれは、甄姫に良く似合うことであろう。
子桓は思いつきに気を良くした。
「そのお言葉だけで充分ですわ。
空に星がなくなってしまったら、毎夜の楽しみがなくなってしまいますもの」
欲のない妻は微笑んだ。
「ふっ。
月のように美しいそなたが、星を従える姿を見てみたかったのだが」
無理強いをしてまで見たいものではない。
妻は、あるがままの姿が美しい天女だ。
型にはめ込んでも意味がない。
「この光景では不十分ですの?」
艶やかな声が言った。
「それもそうだな」
子桓は薄く笑った。
そこには恰幅の絵があった。
満天の星。
それにかすむことのない美しく、優しい己が妻。
その贅沢な風景を見ているのは、自分ただ一人。
笛の音が夜を渡る。
春はもうすぐそこまで来ていた。
その足音を聞きながら、子桓は安らいだような笑みを浮かべた。