院子の花薔薇


 その館は、いつでも女たちのさざめきであふれていた。
 屋敷の主が両指を越える数の妻妾を持っていたためだ。
 そんな中で、子桓は育った。
 そのせいか美しく着飾る女は見飽きていた。
 どれも同じに見える。
 女たちは、面白みに欠けていた。
 どの花も等しく美しい。
 それだけだった。



 戦と戦の間の仮初めの平和。
 麗らかな陽射しが、回廊を白く染め上げていた。
 この城の主は、難しい顔をして歩いていた。
 青年が朗らかな顔をするところなど、臣下の一人として見たことがないのだから、この表情こそが普段の顔である。
 いつものように、と付け加えるべきであろう。
 いかなる時も青年の口元はほころぶことはなく、その薄い色の瞳が和むことはない。
 淡々と未来に続く道を見つめ続けている。
 踏み外すこともなく、歩き続ける。
 結果は当然のことであった。


 唐突に、青年は立ち止まった。
 細い歌声が聞こえたのだ。
 その旋律に覚えはなかったが、その歌詞を知っているような気がした。
 子桓は耳を澄ます。
 心が洗われるような、心地の良い声だ。
 子桓は欄干に手を置き、景色を改めて見る。

 青天はますます青く。
 木々はますます盛んに。
 花々は燃えんと欲する。
 そよと吹く風は、甘い香りを運ぶ。
 地上の星、天上の花が詩を吟じていた。
 小さな院子は、完璧に小さな世界を模していた。
 ここは、平凡で、穏やかだった。
 天の下、全てがこうであれば、戦など起こらないのだろう。
 いや、野心を持たぬ者は少ない。
 太平の世など、一睡の夢だ。
 子桓は色の薄い瞳を伏せる。
 これもまた、うたかたの夢だろう。
 永遠など、どこにもない。
 終わりが美しいのであれば、終焉も悪くはない。
 静かに歌が終わった。

「我が君、いつからそこに?」
 麗しい声に、咎めるような響きが宿る。
 ざらつきのある不協和音も、時には良い。
 人形のような女が欲しいかったわけではない。
「さあ」
 子桓は目を開けた。
 何に喩えても足りない佳人がいた。
 それが己の妻だと言う事実は、高い自尊心を満足させる。
「お声をかけてくださればよろしいのに」
 院子に咲き誇る百花を圧倒するまでの、極上の美女はねめつける。
 子桓は口の端に形ばかりの笑みを浮かべる。
 棘のある大輪の花薔薇。
 無理やり手折ろうとすれば、その棘に肌が傷つけられる。
 だが、それはそれで面白かろう。

「花は、どこで愛でても等しく美しいものだと思っていたが……」
 この花は美しく咲くだけでは、物足りないと見える。
 脳裏に過ぎるのは、出会った時の鮮烈な印象。
 戦火の中、輝く花。
「戦場に咲くお前ほど美しい花はないな」
 子桓は無理やり妻の顎をとらえる。
 澄んだ双眸は、怯えもなく、ただ己を見つめる。
「まあ。
 戦場に立っている時の私しか、美しくありませんの?」
 甄姫は嫣然と言う。
「ふ……」
 どこにいても、花は花だ。
 しかし、これほどまでに美しい花はいない。
 自己主張の激しい女だ。
 思い通りにならないところが、また良かった。
 決まりきった未来をなぞるのに、青年は飽き飽きしていたのだ。


「言い直そう。
 私の隣にいる、お前ほどに美しい花はない」
 子桓は言った。
 そして、妻を解放してやる。
「もちろんですわ」
 甄姫は嬉しそうに微笑んだ。




 星の数ほど花を並べるよりも、たった一輪の極上の花を愛でる方が良かろう。
 その方が面白い。
 私は、父とは違う。
 何も父の真似をする必要は、どこにもないのだ。
 子桓は、そう思った。


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