至福の時間

「我が君。
 今日は何の日か、ご存知ですか?」
 曹丕の執務室の戸をくぐった甄姫は問う。
 しつこいぐらい傍にいる軍師は、不在。
 当然だ。
 そうなるように、あの手この手を使って、仕組んだのだ。
 甄姫の心は『二人きり』という甘い響きに酔いそうになる。
「ああ。
 甄が私にチョコレートをくれる日だ」
 曹魏の皇帝は機嫌良く笑った。
 冷たすぎる印象を与える笑みではない。
 親しい人物だけに見せる笑顔だ。
 出来の良い詩ができたとき。
 弾棊で勝ったとき。
 そんなときに浮かべる、無邪気ともいえる笑顔だった。
「まあ。
 素敵な言葉ですわね。
 それだけで、私は胸やけがしそうですわ」
 大きな竹かごを手にした佳人は笑う。
 夫が貰うチョコレートは、積み上げられて山をなすほど。
 もちろん、季節の挨拶程度のものも含まれているだろうけれど。
 それでもたくさんのチョコレートがある。
「甄は、私が欲しいものをくれるのだろう?」
 貰えない、とはまったく思っていない。
 自信に満ちた声が問う。
「条件があります」
 甄姫は書卓に近づく。
「その条件を守れないのなら、差し上げることはできませんわ」
 蒼い焔が甄姫を見上げる。
 この火になら焼き尽くされてもかまわない。
 そう思った目が、甄姫だけを見つめる。
「我が君は、私の夫ですわね」
「ああ」
「だから、今日は私だけのチョコレートを食べてくださいね。
 どれだけ、チョコレートを受け取ってもかまいませんわ。
 でも『今日』食べるチョコレートは私のものだけ」
「そんなことで良いのか?」
「東郷のチョコレートも食べては、いけませんのよ」
「今日だけ、なのだろう?」
「ええ。今日だけです」
 チョコレートは恋の媚薬。
 意中の人の心を引き寄せる。
 今日のチョコレートには、特に魔法がかかっている。
 いつまでも私と「恋」をしていて欲しい。
 そう思うから、甄姫は言った。
「簡単なことだ」
 曹丕は微笑んだ。
「約束ですわよ」
「約束だ」
「では、どうぞ」
 甄姫は大きな竹かごを書卓に置く。
 布巾をそっとめくる。
 まだあたたかなそれに、蒼焔色の瞳も驚いたようだった。
 佳人はその表情に満足を覚えた。
「食べきれないようなら子どもたちも呼びましょうか?」
 甄姫は尋ねる。
「いや、全部貰おう」
 曹丕は真剣な表情で言う。
 どう見ても一人分とは思えない量を前にして
「甄が私のために作ってくれたものだ。
 他の者には渡せない」
 曹魏の皇帝は言い切った。
 無理がある言葉だった。
 これだけの量を一人で食べきる人間なんて、ほとんどいない。
 夕食を抜いたとしても、夫には完食はできない。
 作った甄姫が一番、わかっている。 
「そのお言葉だけで十分ですわ。
 やはり」
「いい」
 曹丕は甄姫の手を捕らえる。
 蒼焔色の瞳と飴色の瞳が見つめあう。
「私がそなたの夫であるように、そなたは私の妻なのであろう?」
「ええ」
 甄姫はうなずく。
「では……。
 あとしばらくの間で良い。
 そう、仲達が戻ってくるまでの間だけで良い。
 妻でいてくれ」
 曹魏の皇帝は言った。
 甄姫は目を瞬かせ、夫の台詞を反芻する。
 耳から入った言葉は、胸の奥にことんと落ちる。
 ゆっくりと、じんわりと、指の先まで浸透していく。
 体全体に広がっていく想いは「喜び」なんていう単純な言葉ではあらわせない。
 佳人の唇をほころばせる。
「もちろんですわ」
 子どもたちの母ではなく。
 妻として。
 同じ時を共有する。
 それは、甄姫が望んだこと。
 そして「今」夫も望んでくれた。
 胸が打ち震える。
 強い感情に、叩きつけられる。
 どうして、体などあるのだろう。
 魂だけの存在になれるなら、簡単に届けられるのに。
 ありきたりな言葉などではなく、この気持ちを伝えたい。
 甄姫は甘い痛みに酔う。
 ふいに、曹丕の手が離れていった。
 握りしめられていた手首は、まだ熱を覚えている。
 感覚が遠ざかっていくのがとても寂しい。
 囚人を縛る枷のように、もっと身近にあっても良かったのに。
「我が君」
 甄姫は夫の首に腕を回す。
 鎖になれればいいのに、己の腕が。
 離れられないように、永遠につながっていられればいいのに。
 そんな幻想に溺れそうになる。
 甄姫は、自分とは違う色をした髪に隠れがちな耳に、そっとささやく。
「愛しておりますわ」
 ありきたりで味気ない、と思う。
 けれども、甄姫が知っている言葉は少ない。
 届けたい想いに、一番近い音のつづりが、それだったのだ。
 寂しかったし、悲しかった。
 それらが吐息に変わりそうになったとき。
 さらりと曹丕の髪が甄姫の肌をくすぐった。
 鎖にはなれない己の腕にふれたものが、しまいこまれていた記憶を刺激する。
 心の中に、一つの像が結ばれる。
 甄姫が初めて産んだ子どもであり、夫に似て賢い息子。
 その髪色は己に良く似ているが、ふれたときの感触は夫と同じだ。
 今よりも、もっと息子が幼いときは何度も、その頭をなでた。
 髪にふれては喜んだ。
 自分よりも夫に似ていることが、純粋に嬉しかった。
 夫に似ているところを一つ見つけるたびに、甄姫の心は踊った。
 可愛い我が子だ。
 忘れきって、己のどろどろとした思考に没頭できないほどに、可愛い。
 愛は一つきりではない。
 と、甄姫は気がつく。
 恋々と慕う人を抱きしめながら、違う人物を思うこともできる。
 矛盾が寄り添いあっている。
 不思議で、決して嫌いにはなれない撞着だった。
「甄」
 曹丕は言った。
「はい」
 佳人の心の中から、我が子の影がすっと消える。
 一瞬でも「母」になったことを咎められるだろうか。
 そんな不安が甄姫の頭をよぎる。
「これでは食べられない」
 曹丕は苦笑した。
 チョコレートの魔法なのだろうか。
 それには、やはり甘さが溶けこんでいる。
「振りほどけばよろしいのでは?」
 いじわるを言ってみる。
「もったいないから困っているのだ」
 甘い言葉が返ってきた。
 本当は、もっと甘い言葉が欲しい。
 この方から引き出したい。
 貪欲な自分はいくらでも思う。
 でも、竹かごの中身が、冷めていくのも嫌だった。
 甄姫は曹丕から離れる。
 仕事熱心な軍師が戻ってくるには、もうしばらくかかるだろう。
 それを知っていたから、甄姫は曹丕から離れられた。
 目には見えない鎖の存在を。……絆を、不確かなそれを楽しめた。
 応えは、わかりやすい形で在るから。
 傾国の佳人は、気取らない笑顔を白い貌に広げた。
 曹魏の皇帝はわずかに目を逸らした。


 今日は恋が成就する日。
 恋が始まる日。
 そして、恋をしていることを確認する日。


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