「願い事ですか?」
元・司馬懿の護衛武将は、鸚鵡返しに言った。
失礼どころか非礼なのだが、それを咎めるような人間はこの部屋にいなかった。
あまり大きな声では言えないのだが、この朝廷の中にはいないかもしれない。
身分で人間性まで決まるか……いや、上と下の垣根が低く、実に親密な人間関係が築ける理想的な国なのだ。
「もうすぐ『くりすます』という祝いがある」
色とりどりのコマをいじりながら、青年は言った。
弾棊用とは思えない貴石たちだ。
完全に馬の骨の少女は『売ったら高そう』と、性懲りもなく考えていたりした。
「『くりすます』には奇跡が起きて、どんな願いも叶うそうだ」
何かと混同したとしか思えないようなことを曹魏の皇帝は言った。
「すごいですね!
私は美味しいものが食べられる日だって聞きました」
は、すべすべとした弾棊のコマをさわる。
弾くのがもったいないほど綺麗なコマは、少女の持ち駒だった。
友だ……いや、手の空いている配下がいなかった皇帝は、暇そうに回廊を歩いていた少女を部屋に連れ込んだのである。
あの司馬懿の唯一の護衛武将として、――司馬懿にしては――長きに渡り仕えていた。
というぐらいしか取り柄のない娘だった。
が。
何をとち狂ったのか、どこをどう間違えたのか。
あるいは罪滅ぼしの意味がこもっていたのか。
貧相な少女は司馬懿に求婚されたのだった。
断る権利というものもあったのかも知れないが、そんなことを思いつくほど賢くない少女は、もちろんのこと承諾してしまい、現在に至る。
つまり、司馬懿の婚約者だった。
それを曹丕が部屋に引き入れたのだ。
私室。
しかも、完全に人払いがされており、……二人きり。
たぶん問題はない。
美貌の皇后が華麗な蹴り技を見せてくれるかもしれないが。
麗しい脚を味わうのは皇帝だけだろう、……残念、いや、そういうこともあると断言できた。
「私は皇帝だからな。
どんな願いも叶えてやろう!」
曹丕は尊大に言った。
「……」
は小首をかしげ、考えこむ。
腐っても鯛。
高級魚は腐っていたって、どんな状態であっても、たとえ食べるという実用的な行動ができなくっても、『高い』ってだけで価値があるんだよ、という見本。
目の前の男性は間違いなく、曹魏の皇帝だ。
ただの遊び道具に宝石を使うほどの財力を持っている。
言葉通り、『どんな願い』も叶えることが……できるかもしれない。
黒髪の少女はニコッと笑うと、首を横に振った。
「もうすぐ司馬懿様が――」
が言い終わる前に、扉が乱暴な音を立て開いた。
「こんなところにいたんですか!?」
部屋に乱入した人物が、ぷるぷると肩を震わせたのは、怒鳴ったからではない。
それもあるだろうが、ここまで急ぎ足で来たからだ。
簡単にいうと『運動不足』である。
己の主君と婚約者が、密室にいたからでもない。
不思議なことに。
「仕事をしてください!」
司馬懿は、弾棊の盤を強引に取り上げた。
自分が動くよりも、他人を動かすことが多い青年が、である。
本当に切羽詰っているようだった。
年末進行、仕事納めという単語は、どこにでも通用する共通言語なのだろう。
「さすが、仲達の元護衛武将だな。
気配すらなかったのに、よく気がついたな」
曹丕は感心した。
「へ?
あ、違いますよ。殿。
私の願い事は、もうすぐ司馬懿様が叶えてくれるって言おうとしていたんです」
は言った。
「そうなのか?」
曹丕は司馬懿に尋ねた。
「何の話をしているんですか?」
苛々しながら青年は言った。
「『くりすます』の話だ。
奇跡が起きるそうだ」
「なるほど。
では、死んだ人間も生き返ってくるかもしれませんね」
嫌味を捻じこみながら、司馬懿は言う。
「それは困る」
真顔で曹魏の皇帝は言った。
生き返って欲しくない人間が一人や二人どころか、数十人はいる。
無論、その中には父親の名前が入っているのは、お約束事項というものである。
「良いですね!」
は無邪気に笑った。
司馬懿は婚約者に顔を見、それから
「殿。仕事をしてください!」
早口で言った。
「それで、仲達の元・護衛武将よ。
どんな願いを叶えてもらうのだ?」
司馬懿を軽く無視って、曹丕は問う。
「殿がいくらお金持ちでも、権力者でも無理ですよ〜。
司馬懿様じゃなきゃ、叶えられません」
は弾棊のコマを曹丕に返すと、言った。
そして、かつての上官を見上げる。
皇帝が特注した弾棊のコマよりも綺麗なそれを見る。
琥珀のような色をした瞳。
真冬に見上げる太陽と同じあたたかさとやさしさを持つ目を。
は見つけて、笑った。
不幸せな人間には決して浮かべられない、極上の笑顔。
「そうか」
しつこいを通り越して、うんざりするほど執念深い皇帝は、あっさりと納得した。
対照的に、司馬懿は眉をひそめた。
「どんな願いだ?」
青年は尋ねた。
「もうすぐ叶います」
司馬懿様が叶えてくれるんです。とは言った。
願い事は、みな叶えてくれる。
残らず叶えてくれる。
の口にしない願いも、全部。
全部、司馬懿は叶えてくれるのだ。
は、もうすぐ大好きな人のお嫁さんになる――。