09.智謀


 お騒がせ護衛武将・は、庭の片隅でためいきをついていた。
 時は、秋。
 忘れかけた頃に吹く風に、桂花の枝が揺れ、その花が宙にさらわれていく。
 橙色の雨がパラパラと落ちてくるのを、手の平で受け止めながら、やはりためいきがこぼれる。
 それに目をつけない人物がいるはずもなく。立派な暇人、もといこの国の皇后がゆっくりと歩み寄った。
「あら、
 どうしたのかしら?
 何か悩み事?」
 温雅な言葉裏腹に、その飴色の瞳は好奇心で輝いていた。
 それに鈍感な少女が気づくはずもなく、素直に悩み事を口にするのだった。
「最近、司馬懿様が元気がないんです。
 だから、何か…………、私にできることがあれば、その。
 何でもするんですけど。
 司馬懿様が、元気になるようなことが思いつかないんです」
「まあ、そうなの。
 それなら、私一つ知ってましてよ」
「本当ですか!?」
「ええ。
 とても簡単なことだから、でも、いいえにしかできないわ」
 勿体つけるように甄姫は言った。
「教えてあげるから、私の部屋に来なさい」
「はい!」
 だまされやすい少女は、まんまとだまされるわけだったりする。
 
 かくして、智謀は巡らされるのだった。


 ◇◆◇◆◇


 いささか酒が過ぎたようだ。
 三国一顔色が悪いと謳われる軍師は、さらに顔色を悪くして回廊を渡っていた。
 非常に頼りない足取りで、私室に戻る。
 まだ片付けなくてはならない仕事がある。
 司馬懿の杯に酒を注ぎ続けた面々の顔を思い出し、腹の底でののしる。
 声に出すほどの元気は、なかった。
 自分の部屋の扉を見て安堵する。
 青年はよろよろと部屋に入り、我が目を疑った。

 揺らめく灯燭の光の中。
 汚れない真白の花が咲いているように、見えた。
 身に宿す色彩は、黒だというのに、その印象は白。
 その微笑みは、穏やかでやさしい。

「幻覚か」
 そう呟いて、寝台に上る。
 酔いがかなり回っているらしい。
 自分も人の子だったのだな、とごちながら布団を引き寄せる。
 都合の良いことだと、頭の片隅で思いながら、朝になれば酔いも醒めるだろうと、同時に判断する。

「幻覚じゃありません〜!
 司馬懿様、寝ちゃわないでくださいよぉー!!
 せっかく待ってたのに、ヒドイです」
 哀れな訴えに、閉じかけていた瞳を開ける。
 寝台傍の黒い瞳が己を映していた。
 かすかな香りは、練った香ではなく、花の香りだった。
「こんなところで何している?」
 司馬懿は自分の護衛武将に問うた。
 お仕着せの制服ではなく、淡い色の衣を取り合わせまとっていた。
 化粧もなければ、豪華な玉の飾りもなかったが、慎ましやかで愛らしい装いであった。
「その服、誰にもらった?」
 ついぞ見たことない衣装に司馬懿は問いを重ねる。
「え?
 これですか?
 甄姫様にもらいました」
 は能天気に笑った。
「珍しいな」
 タダでもらえるものは、何でももらう。と豪語している割には、遠慮深い少女だ。
 季節ごとに衣装を与えるのも一苦労している側としては、ぜひとも少女に服を与えた言い回しを知りたいところだった。
「そうですか?
 甄姫様はやさしいから、よく物をくれますよ」
 夜空色の瞳はきょとんとする。
 誤解を解くのも面倒なので、司馬懿は故意に黙った。
「あ、それでですね。
 えーと…………、あ、そうだ!」
 は青年の衣の裾を握ると
「私、司馬懿様のことが好きです。
 だから、司馬懿様のためなら、何されてもいいです」
 と、殊勝な言葉を吐いた。



「あれ?
 司馬懿様、嬉しくないんですか?」
 たっぷりと1分ほどの間の後に、少女は不服そうに言った。
「甄姫様にそう言えと教えられたのだな」
 ためいきをつくと、司馬懿は上体を起こす。
 意味もわからずに吐かれた言葉など、嬉しくもない。
 となると、今宵の宴でやたらと酒を注がれたのも計略の一つであったのだろう。
 ご苦労なことだった。
「はい!」
 元気よく返事したを手招きして、寝台に上がらせる。
 無垢な少女は疑いもなく、司馬懿の隣にちょこんと座った。
「いい香りがするな」
「これのことですか?」
 はいそいそと袖の中から小袋を取り出した。
 薄絹の袋の口を開けると、香りが強まった。
 中を見れば、橙の小花がにぎやかに詰まっていた。
「桂花か」
 上品に香を炊き込めるよりも、花を集めてまとうほうがこの少女には似合っていた。
「司馬懿様もお好きですか?」
「嫌いではないな。
 自分で、集めたのか?」
「はい。
 庭にたくさん咲いているんですよ。
 風が吹くと、まるで金の雨みたいに零れてきて、とっても綺麗なんです」
 ニコニコとは話す。
 桂花も悪くはないが、薔薇や茉莉も面白そうだ。と司馬懿は考える。
 健やかに伸びた肢体は、まだまだ肉付きが薄い。
 たっぷりとした袖から見える細い腕は、無防備だった。
「は!
 また、私ばっかりしゃべってます。
 今日の目的は、司馬懿様に元気になってもらう、だったのに!」
「違う意味で元気になりそうだがな」
「へ?」
「馬鹿に講釈たれるほど、暇ではない」
「……馬鹿ですみません」
 目に見えるほど、少女は落胆する。
「最近、司馬懿様元気がないから……。
 もともと悪い顔色が、もっと悪くなっちゃうし。
 悪役面がもっと凶悪になってくし。
 ご飯とかちゃんと食べてないみたいだから、心配しちゃったんですが余計なお世話でしたよね。
 ああ、どうして、私って馬鹿なんだろう。
 司馬懿様のお役に立ちたいのに、逆に足引っ張っちゃってそうだし。
 ていうか、もう遅い!?
 ……役立たずで、馬鹿で、ごめんなさい」
「考えてることがもれているぞ」
「え!」
 は慌てて、口に手をあてる。
 その拍子に小袋が宙に舞い、花弁がばらまかれる。
 パラパラと桂花が雨のように降ってくる。
 確かに、女子どもが喜びそうな光景だった。
 秋の黄金色の日差しを浴びながら、桂花の雨に喜ぶ小さな護衛武将の姿が司馬懿の脳裏に浮かぶ。
 失態に言葉も出ないのか、少女はオロオロと橙の小花を拾い集めようとする。
 その小さな手をつかむと
「このままでいい」
 司馬懿は言った。
「え、でも。
 ゴ……ゴミで汚しちゃって……眠れませんよね、これじゃあ」
 瞳に申し訳なさを浮かべて、は言う。
「構わん。
 どうせ、朝になれば誰か片付けるだろう」
「そりゃあ、そうかもしれませんけど。
 で、でも」
「眠る前に香を炊いたとでも思えば、気にならん」
「こんなところで、司馬懿様を寝かすなんてできません!」
「お前の気がすまないというなら、ここでお前も眠っていけば良いだろう」
「そうですね。
 名案です……って!!
 えー、ここで、ね、ね、寝るって!!
 それこそ、怒られちゃいますよ」
「誰にだ?」
「だって、私はただの護衛武将ですよ。
 こんな上等な布団で寝たってバレたら、先輩たちに怒られちゃいますよ。
 みんな堅いお布団って言っても、私の家よりも上等なお布団ですけど、ああ、そう考えたらすっごく贅沢ですね!
 で、一応我慢してるんですよ」
「お前の注目するところは、そこか」
 司馬懿は呆れる。
「え?他に何があるんですか?
 あ、でも、二人で眠ったらあったかそうですね♪
 朝まで凍えずにすみそうです」
 無邪気に言った護衛武将に、それ以上の言葉をかける気にもなれず、司馬懿は横になった。
 手をつかまれていた少女は抵抗なく、青年の隣に転がり込んでくる。
「お花の香りがしますね」
 嬉しそうには言った。
 閨の中だというのに交わされるのは、他愛のない言葉ばかり。
 少女の態度は、性別の区別を知らない幼子のものと違いがなかった。
 すりっと自分に寄ってくる小さな体にも布団をかけてやる。
「やっぱり、司馬懿様はやさしいです」
 嬉しがらせを言う少女の髪の飾りを解き、その髪を手でくしけずる。
 人懐こい動物の頭をなでてやるのと変わりがないな、と思うのだから、自分も少女と大差がないのかもしれない。

 の取りとめもないおしゃべりを子守唄代わりに、司馬懿はこの晩ぐっすりと眠った。
 そのとき見た夢は、降りしきる桂花の雨の中、少女と手をつないで、どこまでも歩いていく。という突拍子もないものだった。
 夢から醒めたその日一日司馬懿の機嫌が良かったので、謀を巡らせた面々はそれなりの満足感を得た。
 肝心の護衛武将が、いつにも増して口が堅かったので、あらぬ噂が飛び交い、それを否定して歩く司馬懿を見るのは、もう少し先の未来だった。

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