「司馬懿様」
真剣な表情で竹簡を読んでいた少女が顔を上げた。
珍しくゆったりとしていた昼下がり。
仕事を離れて他人の文章を読むのは久しぶりだった青年は、機嫌良く読むのを中断した。
陽だまりの中、黒い瞳が司馬懿を見上げていた。
「司馬懿様って、恋愛をしたことがありますか?」
「は?」
「恋と愛の違いって何ですか?」
は真面目に尋ねる。
「ふん。
大人しいと思ったら、そんなくだらないことを考えていたのか」
琥珀に似た色の瞳は竹簡に戻る。
「私は真剣です!」
「瑣末なことだ。
さして、違いはない」
「でも、違うって書いてあるんです!
愛はわかりますけど。
恋がわからないんです」
歳よりも幼いところのある少女は訴える。
「恋がわからぬ?」
司馬懿はいぶかしがる。
いくら中身が幼いとはいえ、十六を数える立派な乙女である。
高きも低きも、適齢期という年齢だ。
早い者なら、子のひとりでもなす歳であろう。
「はい」
「本気か?」
司馬懿はを見た。
「えーっと、マズイですか?
もしかして、変ですか。
やっぱり、……変なんですね。
嫌ぁ、そんな目で見ないでくださいよぉ!
だって、わからないものを、わからないままにしておくって、悪いことだって。
司馬懿様、この前、言ってたじゃないですか?
だから」
はまくし立てる。
「単語の意味がわからないのか?
それとも、この字がわからないのか?」
「いとしい、いとしい、というこころ。ですよね」
意味もわからずに少女は言う。
『いとしい、いとしい、というこころ』
そんなものがこの世の中にあることを知らないのだろう。
相手を求めて止まない。
こいねがう、そんな感情を味わったことがない。
だからこその、配慮の足りなさがあった。
その声は、あくまでも無邪気だった。
「ずいぶんと非現実な覚え方だな」
「愛情を持つ。という意味で使うんですよね」
「語釈は間違っていないようだな」
司馬懿はためいきをついた。
「愛との差はどこにあるんですか?」
「恋は男女間で、もっぱら使われる」
「愛だって、使いますよね」
は小首をかしげる。
艶々とした黒髪がさらりと流れる。
ふと、その髪にふれてみたいと思った。
が、思うにとどめた。
恋を知らぬ少女にふれても意味がない。
己が虚しくなるばかりだ。
「そのときが来れば、自然と理解するだろう」
これ以上、解釈するのが馬鹿馬鹿しい。
司馬懿は一方的に、話を打ち切った。
物足りなさそうにしている、黒い瞳を無視した。
それから、いくつもの夜が二人の間で重なる。
駆け足で輝く夏は通り過ぎ、木々が落葉する季節になった。
錦のように絢爛な葉が、鮮血のように大地を染める。
夜ともなれば、銀の星が豪奢に瞬く。
天も地も、最後の輝きにあふれていた。
生命が沈黙をたもつ冬の直前。
煌きは、最高潮に達しようとしていた。
そんな秋の夜。
司馬懿は何かの予感を覚え、院子に出た。
月の終わり。
つごもりの夜であるから、月はなく、天を飾るのは五百の鈴。
その美しさに呑まれることなく、青年は天の運行を見上げた。
「天は我を望むか」
司馬懿は満足げにつぶやいた。
星の並びは今宵も思い通り。
無欠であった。
池の近く、人の気配がした。
司馬懿は慎重に歩を進めた。
こんな時間に、このような場所にいる者は、限られている。
蒙昧になってしまった教え子の可能性もなくはなかったが、それは低い。
鏡のように天を宿す池に、ハラリハラリと光が滴る。
貝が抱える宝石のような光。
冷たい銀の光ではなく、柔らかな白の光。
この距離で見えるはずもないのだが、司馬懿は池の近くにたたずむ人物が泣いていると、確信した。
星影に縁取られた小さな影。
闇に溶け込む色彩を有しているのに、馴染むことが出来ないでいる。
その身の内に宿した心のせいであろうか。
あまりに無垢であるために、その魂が透き通って見えるのだろうか。
ほのかに光を放つ少女がこちらを見た。
夜闇の中で見ると、だいぶ印象が違って見えた。
それとも、今宵限りのことだろうか。
司馬懿は少女の隣に立つ。
小柄な少女がことさら小さく、気の毒に見えた。
守ってやらなければならないほど、か弱く。
「……泣いていたのか?」
司馬懿の問いかけに、は弱々しく首を振る。
青年の手を逃れるように、横に振る。
「では、これは」
親指の腹で、頬に残る跡をなぞる。
乾ききらぬそれは冷たかった。
「ち、違います」
は否定する。
瞬きが目の端の雫を零す。
少女の内から生まれた透明な哀しみは、司馬懿の手に落ちてくる。
すでに流れ落ちたものとは違い、少女のようにあたたかかった。
「これは涙ではないのか?」
「……」
「何故、泣く?」
司馬懿は尋ねた。
いつも明るい少女が人知れず、声を殺して泣く理由。
それが知りたかった。
知って、どうするのか。
不思議と、時間の無駄だとは思わなかった。
これから起きる未来を予感していた。
「何でもないんです」
しぼりだすように少女は言う。
泣かぬように、その瞳は大きく開かれる。
瞬かぬその瞳は、不自然で、痛々しかった。
「理由もなく、泣くのか?」
「……」
は顔をそむけようとする。
司馬懿は細い顎をとらえて、自分のほうに向かせる。
泣き濡れた大きな瞳が、誘うように青年を見る。
「理由、わかりません。
すごく、最近……変なんです。
本当にちょっとのことで、嬉しくなったり……。
悲しくなったり……」
言葉を紡いでいる内に少女の瞳の端に涙が生じる。
かすかな風にも耐えかねる花弁のように、ハラっと、それは零れた。
「自分でも……わからないんです」
深遠たる闇のような瞳が司馬懿に問いかける。
いや、明るい輝きを宿すのだから、星で満ちた空の瞳だ。
今宵の夜のように、月を恋しがる星々が輝く夜空の色だ。
「理由を知りたいのか?」
司馬懿は薄く微笑んだ。
「それもわかりません。
知りたくないし……。
でも、……」
「どちらだ?」
問いを重ねる。
は決めかねているようで、司馬懿の視線から逃れようとする。
もともと「ここぞ」と言うときの決断力が乏しい娘だ。
当然の結果だった。
「目を閉じろ」
「どうしてですか?」
甘い駆け引きを知らない、真白な心が問う。
「くちづけをしたくなったからだ」
司馬懿は悪びれずに答えた。
「……え」
小さな声がもれる。
「嫌なのか?」
その問いにも答えらしきものは返ってこなかった。
少女が混乱していることはわかる。
落ち着きなく、視線がさまよう。
「それなら、命令するだけだがな。
選ばせてやる。
好きなほうにしろ」
身勝手な青年は言った。
「そんな……」
「どうする?」
司馬懿は上機嫌に笑う。
目に見える結果というのは、面白い。
自分の思い描く通りに、時が流れていく。
支配欲が静かに満たされていくのが、わかった。
「だって……」
なおも逡巡する。
「選べないなら、私が選んでやろうか?
お前は、目を閉じれば良いのだ」
やさしい声で青年は言う。
逆らうことなど、一切考えていない傲慢な言葉に、稚き少女は観念したようだった。
あちらこちらに暗れ惑った瞳は、そっと伏せられる。
匂うような色もなければ、臈たけた美しさもない。
これから咲く蕾でもない。
この花は、この花としてもう咲いているのだ。
小さな花びらと、細い茎。色も地味で、香りも薄く、目立たない。
自分でも酔狂だと思う。
一体、どこが良いのかわからない。
それでも、それは待ち望んだものだった。
司馬懿は不安におののく少女の唇にふれた。
かすかなふれあい。
ごく間近で、夜空色の瞳が開く。
「どうして、そんなに心が乱れるか教えてやろう」
青年の言葉を、不思議そうには聞く。
澄み切りすぎていて、心の中まで見えてしまう瞳が、司馬懿を見つめる。
「お前は恋を知ったからだ」
「……恋?
恋って、こんなに……。
悲しくなったり、苦しくなったりするんですか?」
だったら、知りたくなかった。と、無垢な乙女はささやく。
少しでも苦いものはいらない、と言わんばかりに、それを教えた青年の手から逃げようとする。
「同時に、甘いと思うがな」
幼い想い人の頬に司馬懿はくちづける。
は小さく首を横に振る。
「では、これから恋の甘さを教えてやろう。
私ばかりが知っているのは、悪いからな」
司馬懿はささやいた。