08.予感的中


「司馬懿様」
 真剣な表情で竹簡を読んでいた少女が顔を上げた。
 珍しくゆったりとしていた昼下がり。
 仕事を離れて他人の文章を読むのは久しぶりだった青年は、機嫌良く読むのを中断した。
 陽だまりの中、黒い瞳が司馬懿を見上げていた。
「司馬懿様って、恋愛をしたことがありますか?」
「は?」
「恋と愛の違いって何ですか?」
 は真面目に尋ねる。
「ふん。
 大人しいと思ったら、そんなくだらないことを考えていたのか」
 琥珀に似た色の瞳は竹簡に戻る。
「私は真剣です!」
「瑣末なことだ。
 さして、違いはない」
「でも、違うって書いてあるんです!
 愛はわかりますけど。
 恋がわからないんです」
 歳よりも幼いところのある少女は訴える。
「恋がわからぬ?」
 司馬懿はいぶかしがる。
 いくら中身が幼いとはいえ、十六を数える立派な乙女である。
 高きも低きも、適齢期という年齢だ。
 早い者なら、子のひとりでもなす歳であろう。
「はい」
「本気か?」
 司馬懿はを見た。
「えーっと、マズイですか?
 もしかして、変ですか。
 やっぱり、……変なんですね。
 嫌ぁ、そんな目で見ないでくださいよぉ!
 だって、わからないものを、わからないままにしておくって、悪いことだって。
 司馬懿様、この前、言ってたじゃないですか?
 だから」
 はまくし立てる。
「単語の意味がわからないのか?
 それとも、この字がわからないのか?」
「いとしい、いとしい、というこころ。ですよね」
 意味もわからずに少女は言う。


『いとしい、いとしい、というこころ』

 そんなものがこの世の中にあることを知らないのだろう。
 相手を求めて止まない。
 こいねがう、そんな感情を味わったことがない。
 だからこその、配慮の足りなさがあった。
 その声は、あくまでも無邪気だった。

「ずいぶんと非現実な覚え方だな」
「愛情を持つ。という意味で使うんですよね」
「語釈は間違っていないようだな」
 司馬懿はためいきをついた。
「愛との差はどこにあるんですか?」
「恋は男女間で、もっぱら使われる」
「愛だって、使いますよね」
 は小首をかしげる。
 艶々とした黒髪がさらりと流れる。
 ふと、その髪にふれてみたいと思った。
 が、思うにとどめた。
 恋を知らぬ少女にふれても意味がない。
 己が虚しくなるばかりだ。
「そのときが来れば、自然と理解するだろう」
 これ以上、解釈するのが馬鹿馬鹿しい。
 司馬懿は一方的に、話を打ち切った。
 物足りなさそうにしている、黒い瞳を無視した。



 それから、いくつもの夜が二人の間で重なる。
 駆け足で輝く夏は通り過ぎ、木々が落葉する季節になった。
 錦のように絢爛な葉が、鮮血のように大地を染める。
 夜ともなれば、銀の星が豪奢に瞬く。
 天も地も、最後の輝きにあふれていた。
 生命が沈黙をたもつ冬の直前。
 煌きは、最高潮に達しようとしていた。
 そんな秋の夜。
 司馬懿は何かの予感を覚え、院子に出た。
 月の終わり。
 つごもりの夜であるから、月はなく、天を飾るのは五百の鈴。
 その美しさに呑まれることなく、青年は天の運行を見上げた。
「天は我を望むか」
 司馬懿は満足げにつぶやいた。
 星の並びは今宵も思い通り。
 無欠であった。


 池の近く、人の気配がした。
 司馬懿は慎重に歩を進めた。
 こんな時間に、このような場所にいる者は、限られている。
 蒙昧になってしまった教え子の可能性もなくはなかったが、それは低い。

 鏡のように天を宿す池に、ハラリハラリと光が滴る。
 貝が抱える宝石のような光。
 冷たい銀の光ではなく、柔らかな白の光。

 この距離で見えるはずもないのだが、司馬懿は池の近くにたたずむ人物が泣いていると、確信した。
 星影に縁取られた小さな影。
 闇に溶け込む色彩を有しているのに、馴染むことが出来ないでいる。
 その身の内に宿した心のせいであろうか。
 あまりに無垢であるために、その魂が透き通って見えるのだろうか。
 ほのかに光を放つ少女がこちらを見た。
 夜闇の中で見ると、だいぶ印象が違って見えた。
 それとも、今宵限りのことだろうか。
 司馬懿は少女の隣に立つ。
 小柄な少女がことさら小さく、気の毒に見えた。
 守ってやらなければならないほど、か弱く。

「……泣いていたのか?」
 司馬懿の問いかけに、は弱々しく首を振る。
 青年の手を逃れるように、横に振る。
「では、これは」
 親指の腹で、頬に残る跡をなぞる。
 乾ききらぬそれは冷たかった。
「ち、違います」
 は否定する。
 瞬きが目の端の雫を零す。
 少女の内から生まれた透明な哀しみは、司馬懿の手に落ちてくる。
 すでに流れ落ちたものとは違い、少女のようにあたたかかった。
「これは涙ではないのか?」
「……」
「何故、泣く?」
 司馬懿は尋ねた。
 いつも明るい少女が人知れず、声を殺して泣く理由。
 それが知りたかった。
 知って、どうするのか。
 不思議と、時間の無駄だとは思わなかった。
 これから起きる未来を予感していた。

「何でもないんです」
 しぼりだすように少女は言う。
 泣かぬように、その瞳は大きく開かれる。
 瞬かぬその瞳は、不自然で、痛々しかった。
「理由もなく、泣くのか?」
「……」
 は顔をそむけようとする。
 司馬懿は細い顎をとらえて、自分のほうに向かせる。
 泣き濡れた大きな瞳が、誘うように青年を見る。
「理由、わかりません。
 すごく、最近……変なんです。
 本当にちょっとのことで、嬉しくなったり……。
 悲しくなったり……」
 言葉を紡いでいる内に少女の瞳の端に涙が生じる。
 かすかな風にも耐えかねる花弁のように、ハラっと、それは零れた。
「自分でも……わからないんです」
 深遠たる闇のような瞳が司馬懿に問いかける。
 いや、明るい輝きを宿すのだから、星で満ちた空の瞳だ。
 今宵の夜のように、月を恋しがる星々が輝く夜空の色だ。
「理由を知りたいのか?」
 司馬懿は薄く微笑んだ。
「それもわかりません。
 知りたくないし……。
 でも、……」
「どちらだ?」
 問いを重ねる。
 は決めかねているようで、司馬懿の視線から逃れようとする。
 もともと「ここぞ」と言うときの決断力が乏しい娘だ。
 当然の結果だった。
「目を閉じろ」
「どうしてですか?」
 甘い駆け引きを知らない、真白な心が問う。
「くちづけをしたくなったからだ」
 司馬懿は悪びれずに答えた。
「……え」
 小さな声がもれる。
「嫌なのか?」
 その問いにも答えらしきものは返ってこなかった。
 少女が混乱していることはわかる。
 落ち着きなく、視線がさまよう。
「それなら、命令するだけだがな。
 選ばせてやる。
 好きなほうにしろ」
 身勝手な青年は言った。
「そんな……」
「どうする?」
 司馬懿は上機嫌に笑う。
 目に見える結果というのは、面白い。
 自分の思い描く通りに、時が流れていく。
 支配欲が静かに満たされていくのが、わかった。
「だって……」
 なおも逡巡する。
「選べないなら、私が選んでやろうか?
 お前は、目を閉じれば良いのだ」
 やさしい声で青年は言う。
 逆らうことなど、一切考えていない傲慢な言葉に、稚き少女は観念したようだった。
 あちらこちらに暗れ惑った瞳は、そっと伏せられる。
 匂うような色もなければ、臈たけた美しさもない。
 これから咲く蕾でもない。
 この花は、この花としてもう咲いているのだ。
 小さな花びらと、細い茎。色も地味で、香りも薄く、目立たない。
 自分でも酔狂だと思う。
 一体、どこが良いのかわからない。
 それでも、それは待ち望んだものだった。
 司馬懿は不安におののく少女の唇にふれた。
 かすかなふれあい。
 ごく間近で、夜空色の瞳が開く。
「どうして、そんなに心が乱れるか教えてやろう」
 青年の言葉を、不思議そうには聞く。
 澄み切りすぎていて、心の中まで見えてしまう瞳が、司馬懿を見つめる。
「お前は恋を知ったからだ」
「……恋?
 恋って、こんなに……。
 悲しくなったり、苦しくなったりするんですか?」
 だったら、知りたくなかった。と、無垢な乙女はささやく。
 少しでも苦いものはいらない、と言わんばかりに、それを教えた青年の手から逃げようとする。
「同時に、甘いと思うがな」
 幼い想い人の頬に司馬懿はくちづける。
 は小さく首を横に振る。
「では、これから恋の甘さを教えてやろう。
 私ばかりが知っているのは、悪いからな」
 司馬懿はささやいた。

お題配布元:お題場
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