「司馬懿様、幸せってどんな形をしていると思いますか?」
唐突な質問だった。
竹簡から顔を上げれば、クリッとした黒い瞳が間近にあった。
屈託のなさは美点かもしれないが、警戒心のなさは欠点だった。
「非現実的だな」
司馬懿は断言した。
「そんなこと言わないでくださいよぉ。
そこで話が終わっちゃうじゃありませんか〜」
護衛武将のは童女のように唇をとがらせる。
「望むところだな」
司馬懿は鼻で笑う。
「冷たいです」
「それ以外の何ものでもないな」
青年は視線を竹簡に戻す。
今日中に終わらせなければならない仕事だ。
少女のお喋りに付き合っていては日が暮れてしまう。
そんな暇はない。
「……、すみません」
無駄に明るい声が、沈む。
「何だ?」
違和感を覚えて、司馬懿はを見る。
小柄な少女はぽつんとそこにいた。
その表情は常とは違い、真剣だった。
「司馬懿様、冷たい人じゃないと思うんです」
はサラッと言った。
今まで、誰も言わなかったことを、ごく自然に言った。
竹簡を持つ手がかすかに震える。
「思うのは自由だが、押しつけるとなると違うな」
司馬懿は一呼吸してから、言った。
「私は司馬懿様が大好きなんです」
は言った。
お日さまが好きだ、という声と同じ声で。
晴れた日は気持ちがはずむと言った声で。
変哲もないことを語るように言う。
「だから、司馬懿様って、あったかいと思います」
これから先、誰も言わないようなことを言う。
「理由になっていないな」
司馬懿は複雑な気分を味わう。
単に嬉しいだけではない、ほろ苦いやさしさだった。
やがて来る別れを予感しながらも、期待をする。
「そうですか?
私には十分な理由なんですけど」
は言った。
近い将来、戦は終わり、護衛武将は必要なくなる。
そのとき自分は、我慢ができるのだろうか。
別離に耐え切れるのだろうか。
司馬懿はためいきをついた。
「それで、話の続きなんですけど。
幸せってどんな形をしていると思いますか?」
「観念的なものが形を持つわけがなかろう」
司馬懿は言った。
少女と話していると、とっくの昔に捨ててしまったものを思い出す。
「想像してみてください」
「時間の無駄だ」
「ちょっと、びっくりしちゃいますよ。
私もすごく意外でしたから。
司馬懿様、聞きたくありません?」
「思わないな」
「ここは嘘でも聞きたい、って言うシーンですよ」
「命令される筋合いはない」
「命令なんてしてませんよー。
イヤだなぁ」
はクスクスと笑う。
「それで、幸せとはどんな形をしているんだ?」
「えへへ。
私にとって、ですよ。
すごく意外なんですけど、いっぱいびっくりしちゃいますけど。
でも、とても当たり前なんですよ」
自慢するように少女は言う。
それに司馬懿は軽い苛立ちを覚える。
「前置きが長い」
「私にとっての幸せは、司馬懿様そのものなんです」
は言った。
幸せそうに綺麗に笑う。
まるで、夏の太陽のようにお節介なまでに明るい笑顔だった。
「くだらぬ」
「えー、どうしてですか!?」
「ずいぶんと変な形をしているのだな」
「そうですか?
まあ、そうですけど。
色々考えて、やっぱりそうなんですよ」
意味不明なことをは言った。
「その論理でいけば、私の幸せは……。
お前だ……と、でも言うと思ったのか?」
「違うんですか?」
不満そうな顔つきで少女は言った。
「そんなはずないだろう」
「ショックですぅ。
言ってもらえると思ってたのにぃ!」
は小さく握りこぶしをつくる。
「負けません!
絶対に、司馬懿様に言わせてみせます」
並外れて前向きな精神の持ち主だ。
めげずには言い切った。
「やはり、時間の無駄だったな」
司馬懿は竹簡を広げる。
少女と話していると、調子が狂う。
「これからの方針にするんで教えてください。
司馬懿様の幸せって、どんな形をしてるんですか?」
「さあな」
「私ばっかりしゃべって、言わないなんてズルイです!」
「勝手にお前が話し出したのだろうが」
「そうかもしれませんが、不公平です」
「いつから公平な立場になった?」
「うっ。
絶対に、負けません!!」
少女は宣言した。
幸せの形。
もし、幸せに形があるのなら、それは太陽の光に似ているだろう。
陽に向かって咲く花に似ているだろう。
嫌になるくらい明るいあの夏のような。
それはきっと……。