「退屈だな」
曹丕は呟いた。
それを訊くはめになった曹魏の軍師はためいきを噛み殺した。
「よろしいではありませんか?」
司馬懿はできるだけ平静に言った。
「戦でも始めるか。
最近、小うるさいものもいることだしな」
玉座を埋めることに飽き飽きしている帝王は言った。
「戦は遊びではございません」
かつて教え子を諭したように、司馬懿は言った。
「あまり変わりがないだろう」
あっさりと曹丕は言った。
「遊戯盤の駒と人の生命は違うのです」
司馬懿は、とうとうためいきをついた。
「仲達よ。
お前は四百年ほど生まれてくるのが遅かったのではないのか?」
曹丕は皮肉る。
「理想的な国家を求めて、どこが悪いと良いのでしょうか?
殿にはそれだけの資質があるのですから。
善政をお敷きください」
司馬懿は切り返す。
「小市民的な幸せだな。
戦乱の世に生まれてきたのか?」
蒼炎色の瞳がいぶかし気に司馬懿を見やる。
「私をお引き立てしたのは先代です。
先代にお聞きください」
司馬懿は言った。
「そうは言っても父上は天国に行ってしまわれたからな。
いや、地獄か。
どちらにしても行きたくない場所ではあるな」
曹丕はつぶやいた。
「……退屈すぎる」
秀な教え子は、すっかりと鬱屈としていた。
曹魏から出向くような大きな戦がないからだろう。
仕掛けられたら、それとなく撤退を誘うような。
小競り合いにもならない戦ばかりだ。
その辺の将兵に任せて置ける程度の戦だ。
司馬懿自身も状況を読んで、適当に献策するだけだった。
「でしたら、我が子の面倒でも見られたらどうでしょうか?
後継を導くのも天子としての役目です。
それに父親が息子と共に過ごすのは悪くない時間だと思われますが?」
司馬懿は誘導するように言った。
「……あまり良い思い出がない。
それに阿叡は賢い。
子どもらしい子どもではないな。
甄に似たのだろう」
「帝王学を教えるだけが教育ではありません。
漢詩を作るのも良いでしょうし。
一緒に……そうですね。
弾棋でもしたら、どうでしょうか?
子どもというものには遊ぶ時間が大切なものです」
司馬懿は淡々と言った。
曹操と曹丕の親子関係を身近で見てきただけに提案したのだった。
立派すぎる思想ではあった。
情の欠片すらなかった。
あったかもしれないが、それを見せることはないほど厳しかった。
おかげで歪すぎる天子が出来上がってしまったのだ。
私情を挟まない、という点では秀だったが、それだけだ。
「経験談か?」
「一般論です」
「ずいぶんと良い父に恵まれたのだな」
曹丕は薄っすらと口元を歪める。
「開戦には反対か?」
「当然です」
司馬懿は断言した。
「この国の軍師としての発言か?」
「あのような僻地を取ったところで地の利はありません。
もし始皇帝のように天下統一を果たすというのならば、話は変わりますが。
時期早々でしょう。
まだ諸葛亮が残っています。
徹底抗戦されたら面倒です」
国力が落ちている時に、誘い出して叩いた方が効果的だろう。
天然の要害に囲まれている地を攻め入るのは、骨がかかる。
確かに良質な鉄と塩の産地ではあるが、魅力には欠ける。
豊かな曹魏には不必要だ。
「ならば蜀漢はこちらを攻めてくる?」
曹丕は問う。
「禅譲されたのが目障りだからでしょう。
だから正当な後継として、蜀漢を名乗るのです」
「一理あるな」
「今は内政を充実させる時期かと思われます。
荒れている田畑は、まだあるのですから。
戦は職業軍人だけではなく、田畑を耕す農民たちまで奪います。
戦をすればするほど、人命は奪われていくのです」
「耳が痛くなるほどの正論だな。
だが人の生命の数など数えていたら、乱世の時代では生き残れないぞ。
ただの数字だ」
帝王は言い切った。
正しすぎる振る舞いだった。
「仲達は開戦には否定派か?」
「当然でしょう」
「では退屈しのぎを提案しろ」
「今までは、どうしておられたのですか?」
無理難題を吹っかけられた司馬懿は呆れた。
「あれは、どうした?」
曹丕は尋ねる。
「あれとは?」
「お前の護衛武将だ。
暇つぶしの玩具にはちょうど良かったからな」
「……書類は見ておられなかったのですか?
護衛武将に欠員が出た、と報告したはずですが」
「ああ、そういえばお前の署名と判もあったな。
そうか、死んだのか」
「よくあることです」
司馬懿は淡々と言った。
「その割には冷静だな。
あれほど長く傍に置いていたのに。
てっきり情が湧いたのかと思っていたが」
曹丕は面白いことを思いついたと言わんばかりに話を振る。
「護衛武将などいくらでも補充が効くものです」
弾棋の駒と同じものだ。
しかも、司馬懿の書斎の書卓の片隅に置かれている透明な水色の駒。
弾いたら最後、あっさりと砕け散る。
遊戯盤にすら乗せられない駒だ。
「先ほどと言っていることが矛盾しているな。
語るに落ちたということか。
確か、蹂躙戦の命令を出したそうだな。
殲滅とは……私情を挟んだとしか思えないな」
蒼炎の瞳が司馬懿の心を見透かすように言った。
それから曹丕は目を細めると、笑った。
「お前の顔はしばらく見たくない。
正論ばかり振りかざされるのも不愉快だ。
私には私の道がある。
理想論を求めるのならば、違う主君を探すべきだな。
次に顔を出す時は、戦支度をする時だ。
その覚悟ができたら朝議に参加しろ」
曹丕は命令した。
「かしこまりました。
未来永劫、ないと思っていてください」
司馬懿はキッパリと言った。
「仕事は届けさせるから安心しろ。
内政に関していえば、他の将と違いすぐれているからな」
「腕を買っていただけるのは大変嬉しく思われますが、いっそのことクビになされてはどうでしょうか?」
司馬懿は本音を零した。
そうしたら、故郷へ帰るだけだ。
元の生活に戻るだけだ。
それも悪くない、と思えてしまう。
「それではお前の未来の妻の顔が見られないであろう。
どんな女を連れてくるのか、楽しみにしているのに」
曹丕は楽し気に言う。
「そのようなことをおっしゃるのなら甄姫様にお伝えしておきましょうか?
先代のように悪い癖が出た、とでも」
司馬懿は釘を刺す。
「夫婦の不和を願うのか?」
「他人を賭け事に巻きこむよりはマシでしょう」
司馬懿は言った。
「どうせ屋敷に置いているのだろう。
今までほとんど帰らなかったのに屋敷に帰るようになったのだからな。
……あの戦いが終わってからだな。
代わりにはちょうど良い女か?
慰め者になっているのだとしたら哀れだな」
曹丕は同情的な口調で言った。
「臣下の妻に興味を持ってどうするのですか?」
「仲達の妻だから気になるのだ」
「……そうですね。
殿が暇つぶしに戦をする、という考えを改めたのなら前向きに対処しましょう」
「つまりは見せたくない、ということか。
それほど掌中の珠か?
嫉妬深い男は嫌われるぞ。
束縛は女が嫌う行動の一つだと、甄がこの間、言っていた」
曹丕は揶揄うように笑う。
どうやら暇つぶしの相手を戦から司馬懿に変えたようだった。
……どちらがマシなのだろうか。
曹魏の民のことを思えば、まだこちらが譲歩した方がマシなのかもしれない。
ただの世間話だ。
しかも平和的な。
だが忍耐が持つか、というとなると話は別だ。
「お話は終わりですか?」
「気が変わったら、顔を見せろ。
それまでは朝議も軍議も出なくていい。
どうしてもお前にしか任せられない案件が出たら、下官に届けさせる」
曹丕は楽しそうに言った。
「……かしこまりました」
司馬懿は慇懃に頭を垂れた。
そして、曹丕の私室から退出した。
与えられた書斎に戻りながら司馬懿は考える。
確かに自由な少女だった。
束縛したところで、ひらりとかわしていくだろう。
曹魏という北の地にあっても、真夏の太陽のように無駄に明るく、無駄に公平で、やたらと眩しい。
純然たる好意を向けてくる。
何の見返りも持たずに。
ただ一緒にいられるのが嬉しい、と笑うような少女だった。
書斎に戻ると山のような竹簡があった。
開かなくてもわかる。
軍師の仕事が増える理由など、一つしかないのだから。
それでも司馬懿は律儀にも竹簡を開くのだった。
新しい戦の準備だ。
長く続く下官がいなくて良かった、と思う瞬間でもあった。
こんな弱々しいところを他者に見せるわけにはいかない。
指先一つで生命を奪っていかなければならないのだから。
あくまで無慈悲で、あくまで冷血で、あくまで非情ではなければならない。
それが上に立つ者に求められる資質なのだ。
感傷など覚えてはならないのだ。
わかりやすい悪役というものは必要だ。
それが天子であってはいけない。
それでは覇道になってしまう。
鬱屈した帝王には、王道を歩んでもらわなければいけないのだ。
この国の大地のために。
司馬懿は書卓の隅に置かれた透明な水色の弾棋の駒に目をやる。
この場にいない少女の名を心の中で、小さく呼んだ。
「」
と。
ためいきのように、ささやきのように。
それだけで満たされるのだから、ずいぶんと自分も甘くなったものだ。
信頼できる者などいないと信じこんでいた。
幸せになる可能性など、仕官する時に考えることをやめてしまった。
それなのに、再び夢を描くようになった。
動乱の世にふさわしくないような夢を。