もう探さなくても良い。
ぬくぬくした布団の中、静かな寝息。
やさしく抱きとめてくれる腕。
朝が来るまで、全部、のものだ。
凍える夜も、ひもじくて眠れない夜も、不安で怖くなる夜も、今は遠い。
居心地の良い腕の中で、まどろむのは幸せだった。
もうちょっと。
あとちょっと。
贅沢になる。
時間に厳しい太陽は、地平の向こうに顔を出した。
鳥たちが鳴き騒ぎ、朝を告げる。
その声に、は目覚める。
寝起きの良い少女は、ごぞごぞと布団から抜け出す。
裸足のまま、ひたひたと床を歩き、降りたほうとは反対側に回りこむ。
そろーっと首を伸ばして、寝台をうかがう。
司馬懿様、まだ眠ってるよね。
昨夜も遅かったし。
少しでも長く眠ってもらわなきゃ。
ここ最近、忙しすぎるみたいだし。
過労死しちゃいそうな勢い……。
今の段階で司馬懿様に死なれちゃったら、私はどうなるんだろ?
は眉をひそめた。
考えたくない未来だったので、少女は考えるのをやめた。
音を立てないように、細心の注意をして、は司馬懿から遠ざかろうとした……が、できなかった。
「どこへ、行くつもりだ?」
琥珀のような色の薄い瞳が開き、を捕らえる。
「あれ?
起こしちゃいましたか?」
「それだけ派手に動いておいて、他人に起きるなというつもりか?」
かったるそうに司馬懿は上半身を起こした。
細く白い指先が邪魔そうに、長い髪を背に流す。
「え!
そんなに大きな音がしていましたか?
……気をつけていたつもりなんですが。
えーっと。
スミマセン」
とりあえずは謝った。
「起こすつもりはなかったんですよ。
そうだ!
二度寝してください。
きっと、気持ちが良いですよ!」
「話したら、目が冴えた。
眠るような気分ではない」
勝手に起きて、勝手に話し出した人間のいうセリフではないが、は反論が言える立場ではなかった。
小柄な少女は体をさらに小さくして、うなだれる。
「司馬懿様の安眠を邪魔する気はなかったんです。
本当です!
信じてください」
は必死に訴える。
「結果が伴わなければ意味がない」
青年は言い切った。
「うっ」
どうして私は、こうなんだろう。
司馬懿様に、ちょっとでも長く眠って欲しかったのに。
起こしちゃうし。
それじゃあ、全然、意味がなくって。
が自己嫌悪に浸っていると、視界に変化があった。
腰に、腕らしき感触が回って……と思っていたら、そのまま寝台に引き上げられた。
「ひゃっ!」
抱え上げられて、は悲鳴を上げる。
それを耳元で聞く羽目になった青年は
「もう少し、色気のある声が上げられんのか」
と、ためいき混じりに注文をつけた。
「む、無理ですよ!
突然なんですから。
あれ?
じゃあ、普段から、女性って悲鳴の練習をしてるんでしょうか?
滅多に「きゃぁー」なんて悲鳴を上げられないと思うんですけど。
どっちかというと「ぎゃっ」とか「ぅわっ」とか。
そっちのほうが出ちゃいそうですよね」
は司馬懿を見上げる。
「完璧な悲鳴の上げ方も訓練する気か?」
青年は少女を抱えなおす。
あたたかくて軽い布団がの体を包む。
「えーっと。
司馬懿様がお望みなら!
頑張ります♪」
は無駄な力を抜き、体を預ける。
えへへ。
私だけの……特権なんだ。
他の女の人も、そうだったかもしれないけど。
今のこの瞬間は、私だけで。
司馬懿様の傍って、あったかくて、安心する。
「その前に覚えることが山積みだろう」
細い指がの髪をすいていく。
「あははー。
そうなんですよねぇ。
でも、お掃除は、もう完璧ですよ!
いつでも清掃員として就職できます!
璃さんにも、お墨付きをもらいました」
はニコニコと笑う。
「それ以外は、問題があるということだな」
「……頑張ってます」
「口だけか」
「ちゃんと司馬懿様の奥さんにふさわしいようにって……!
な、な、何でもないです」
自分で言ったフレーズが恥ずかしくて、少女は手で口を覆う。
きっと、璃さんのせいだ。
いつも言うから。
司馬家の奥方にふさわしく。って。
だから……うつっちゃったんだぁ。
「自覚ができたようだな。
せいぜい足掻くがいい」
「司馬懿様。
それじゃあ、悪役のセリフです」
は律儀に突っ込みを入れる。
「何年も待ってやるほど、気長ではないからな」
「どういう意味ですか?」
少女は小首をかしげる。
「旦那様。
そろそろお時間ですわ」
璃の声が戸の向こうからした。
慌てて、窓の外を見れば、太陽はすっかり顔を出していた。
ヤバっ!
もう、こんな時間だったなんて。
は焦ったが、体は動かない。
しっかりと抱き寄せられているのだ。
もちろんが全力で抵抗すれば、腕の中から逃げ出すことは可能だろう。
密着しているからこそ有効な打撃系の攻撃は、意外に多い。
が、そんな真似をするわけにはいかない。
青年は害を及ぼそうと……いや、ある意味、害なのかもしれないが、それは少女一人の都合だけであって、世間一般的に問題のない行動であり、だからこそは困ってしまうのだ。
が体を硬くしたのは、すでに相手には伝わっている。
どうにかならない……よね。
やっぱり、あの時点で逃げちゃえば良かった。
ああ、どうして司馬懿様、起きちゃったんだろ。
勘が良すぎる〜。
どっかにセンサーとか、入ってるんだ。
そうに違いない。
「今日も逃げそびれたな」
「あ、そうなんですよね!
どうしてなんでしょ……ち、違います!
べ、べ、別に、逃げようなんて。
ちっとも思って……スミマセン。
思いました」
は白状した。
大きなためいきと共に。
「嫌か?」
「……苦手なんです」
泣きたい気持ちでは司馬懿を見上げる。
本当は、こんな気持ちになるものじゃないのに。
嫌い……じゃない、と思う。
吐き気がするほど嫌いじゃないし。
鳥肌がたつわけでもない。
くすぐったい……ような気がするけれど。
でも、したくない。
の気持ちにはおかまいなく、司馬懿は少女の頬にふれる。
なぐさめるためじゃない。ということをは知っていた。
これから起こることが、好きじゃない。
わがままだって、わかってるけど。
少女は青年の衣をギュッと握った。
上質の絹でできたそれは、サラッとしていて、すべすべしている。
「行ってくる」
司馬懿はの頬にくちづける。
ほんの一瞬、ふれるだけ。
それなのに心臓がつかまれたみたいに。
ぎゅーっとして。
苦しくなる。
「行ってらっしゃいませ」
は背を伸ばして、お返しに、頬に小さくキスする。
それから、握っていた衣を離した。
キスするのも、されるのも。
それが嫌なんじゃない。
毎朝、お別れするのが苦手。
一緒について行けないのが……とっても嫌い。
ずっと、ずっと、一緒にいたい。
それがわがままだって、わかってるから。
……言わない。
「できるだけ早く帰ってくる」
なぐさめるように、の体温よりも冷たい指先が頬をなでていった。