少女が初めて口にした願いは、我がままで可愛らしいおねだりから遠いものだった。
この少女らしいといえば、らしい。
叶えてやるのはたいそう容易いが、文句の一つでも言いたくなるようなものだった。
「あれ、司馬懿様。いたんですか?」
は言った。
谷底に叩き落され、大きな裂傷が三箇所という状況から生還した少女は、この日どうにか床払いをすました。
淡い色の衣をまとった少女は、遠慮がちに椅子に腰掛けていた。
「私の家だ。
いると問題があるのか?」
青年は苛立ちながら、空いている椅子に腰をかけた。
「え、……あ。そのぉ。
ほら、司馬懿様、家にいることが少ないから!
だって、昼間はお仕事があって、お城にいるはずで……って、今日はどうしているんですか?」
黒く大きな瞳をパチパチと瞬かせ、小首をかしげる。
「休みだ」
「司馬懿様にも、お休みなんてあるんですね。
ないと思っていました」
「馬車馬のように働けるか」
「え、でも……あれぇ?
私が護衛武将やっていた頃って、お休みありましたっけ……?
記憶にないんですけど」
考え込むように黒い目が半ば伏せられる。
婚約者になった少女は、妙に聡い。
肝心なところは鈍いのに、回らないで良いところは回る。
「偶然だ」
司馬懿は短く答えた。
「はあ。
お休みなんですね♪
ワクワクしますね!
お休みって、楽しくありませんか?
何をしても良いんですよ」
単純なところがある少女は、ニコニコと自分のことのように喜ぶ。
司馬懿はその笑顔に目を細めた。
これから先、多くのものを犠牲にすることだろう。
少女と引き換えに、可能性という宝をどぶに捨てたようなものだ。
後見もない、財産もない、賎しい身分の女を妻にする。
司馬家の当主として、甘い決断だ。
それでも、良い。
その笑顔には、それだけの価値がある。
「司馬懿様。
それで、どうしてここに来たんですか?」
はニコニコ笑顔のまま尋ねた。
「ほお。
自分の立場というものを理解していないようだな」
「えっ!
私、また何かやっちゃいました?
でも、最近はずっと寝てるだけだったし、トラブルを起こしようがないような……って、そうやって慢心してるから、また何かやっちゃいました?
心当たりはまったくないんですけど!」
「そうか。『まったく』ないのか」
「そりゃあそうですよ!
だって、ずーっと寝てたんですよ。
それなのに……って、寝ていたのが気に障っちゃったとか?
スミマセン〜。
お屋敷に置いてもらっているのに、ただ飯ぐらいの…………役立たずで」
水が切れた花瓶の花のように、少女はうなだれる。
「それで解決したのか?」
「へ?
何がですか?」
「私がここへ来た理由だ」
司馬懿は話を戻した。
「あ、そういえばそうですね。
……って、私が質問したんですよ!
司馬懿様が答えるべきところです」
「本気で言ってるのか?」
「冗談とか、得意じゃありません」
キッパリとは言った。
「答えを強要できる、と信じているわけか」
司馬懿は薄く笑う。
「え。あっ、えーっと、そのぉ。
教えていただけたら嬉しいかなって、ちょこっと思っていたんですけど。
あれ、でも、すっごく重要じゃありませんよね。
だって、ここは司馬懿様の家だから、司馬懿様がどこにいたってかまいませんよね!
そうですよね〜。
変なこと言っちゃって、スミマセン〜」
「どこにいてもかまわないのに、ここをわざわざ選んだ理由を知りたくないのか?」
「え、選んだー!?
な、な、何で。って、あー!
言わないでください!
怖いこと!!」
は首を小刻みに横に振り、本気で嫌がる。
少女の頭の中では、とんでもない勘違いがくりひろげられているのだろう。
「逆に話したくなるな」
「何でですか?
司馬懿様って悪趣……な、何でもないです!」
「続きはどうした?」
「忘れました!
ほら、私って忘れっぽいじゃないですか。
けっこう、重要なことでも、忘れちゃうっていうか。
それで司馬懿様に怒られて……この前も何か忘れて……。
あれぇ?」
は小首をかしげる。
何かを思い出すように、黒い目は卓を見つめる。
それから、パッと顔を輝かせ、思い出したことを口にしようとして。
少女は口元を押さえる。
頬が見る見る紅くなっていき、やがて耳まで染まる。
まるで、花が咲き初めるその一部始終を早送りで眺めているような気分に、司馬懿はなった。
誰もまだ咲いた姿を見たことがない、小さな花だ。
大輪の花にはない、可憐さがあった。
「それで、答えは見つかったのか?」
司馬懿は子どもをあやすようにやさしく尋ねた。
困ったように黒い目が司馬懿を見る。
視線が合うと、すぐさまそれは外された。
「だって……。
変です、とっても……」
言いづらそうには言う。
「そんなはずは、……ないです。
でも、やっぱり、ちょっとぐらいは、自惚れてもいいかもって。
思っちゃうんですけど。
だけど、でも、変だから、やっぱりそんなことありません!」
「答えは?」
問いを重ねる。
無駄なことは嫌いだったはずだが、自分もずいぶんと変わった。
目の前の少女のためなら、無駄も楽しいと思えてくる。
「私に会いに……きた。
こ、こ、こ…………だから」
「肝心なところが聴こえなかった」
司馬懿は小さく笑った。
「私が司馬懿様の婚約者だからですっ!」
は怒鳴るように言った。
高い声がさらに細くなって耳障りだったが、司馬懿は満足した。
「覚えていてくれたようだな。
嬉しい、と言っておこう」
「ちっとも思ってませんよね!
そういうのを『シラジラシイ』って言うんです。
私だって、知ってます」
「嘘のほうが良いのか?
変わっているな」
「……嘘じゃないほうが、いいです」
少女は口をへの字に曲げる。
「ならば、信じておけ」
「司馬懿様の言い方、他人事すぎます。
嬉しいなら、もっと嬉しそうにしてください!
わかりづらいです〜」
「親切にしてやるつもりはない」
青年は言い切った。
「司馬懿様の……ケチ」
「諦めろ。
お前が好きになった男は、甘いことには縁がなかったんだからな」
「す、す、好きって!」
「違うのか?」
「…………違わなくない……です。
どうして、司馬懿様は平然としてられるんですか。
ズルイです。
私ばっかり、ドキドキして……困って」
「不公平か?」
「はい」
少女は真剣な面持ちでうなずく。
「では、一つ願いを叶えてやろう。
私の叶えられる範囲であれば、どんな願いでもかまわない」
「願い、ですか?」
「不公平なのだろう?
だから、一つ叶えてやる。
少しは不満が減るだろう」
「司馬懿様って、やっぱりやさしいんですね」
は嬉しそうに微笑んだ。
司馬懿は思わず目をそらした。
全幅の信頼を寄せられるのがどうにも苦手だった。
「願いはないのか?」
「そんないきなり言われても……。
一つだけって、難しいですよぉ〜。
司馬懿様だったら、何だって叶えてくれそうじゃないですか。
だったら、とびっきりのお願い事にしたほうがお得です☆
絞りきるのは、大変なんですよぉ。
もしも、今すぐ叶えてくれるんだとしたら…………」
少女は口を閉ざした。
おしゃべりがダラダラと垂れ流されるかと思いきや、だ。
紅ものらない唇を引き結んで、黒い瞳がじっと卓を見つめる。
少女は本当の願いを口にしないだろう。
代わりに、もう少し叶えやすい願いを言うだろう。
司馬懿はそんな予感に囚われた。
「家族に手紙を書きたい、です。
きっと心配してるだろうから。
毎月、手紙を書いてるんですけど、今月はまだ書いてないから。
だから、手紙を書かせてください」
は言った。
少女が初めて口にした願いは、我がままで可愛らしいおねだりから遠いものだった。
この少女らしいといえば、らしい。
叶えてやるのはたいそう容易いが、文句の一つでも言いたくなるようなものだった。
口に出されなかった願いに、司馬懿は思考をめぐらせる。
答えを聴く日は、おそらく来ないのだろう。
そう思いながらも、少女の一番の願いを考えた。