「司馬懿様、司馬懿様〜!」
今日も今日とて、真昼の照明器具並みに明るい声が彼の名を呼んだ。
は司馬懿の書斎に飛び込んだ。
竹簡を抱えた青年は不機嫌そうに、部下を見た。
「聞いてください!」
リスのようにくりっとした瞳で、は司馬懿を見上げた。
「何の用だ!?」
めちゃくちゃ不機嫌に司馬懿は言った。
が、そんなことをいちいちは気にしたりしない。
「玉を持てるようになりました!」
嬉しくて、嬉しくて、その声は弾んだものになる。
「だから、何だ!?」
司馬懿は怒鳴った。
こう見えても、曹魏の軍師。
戦いの前は、大忙しなのだ。
戦場に出なければ、暇でやることがない護衛武将とは違う。
しかも、主君は目を放せば仕事を怠ける愛妻家。
頭は悪くないのだが、使う方向性を間違っているひねくれ者の教え子は、成人した現在、もっと性質が悪くなっていた。
「……それだけ……です」
蚊の鳴くような声では言った。
黒い瞳がみるみる涙を溜めていく。
司馬懿はギクッとした。
少々、短気であったか、と反省して、
「それで、何が使えるようになったのだ」
できるだけやさしい声で尋ねた。
はパッと顔を輝かせた。
小柄な少女は幸せそうに司馬懿を見上げる。
「陰玉です」
自信たっぷりには答えた。
一呼吸後、司馬懿は声を荒げた。
「よりによって、一番つかえない玉とは!!
氷玉とは言わないが、せめて炎玉だろう!!!」
「えー。
司馬懿様にぴったりだと思ったのに」
は懐から玉を取り出した。
「この禍々しい色合いとか、陰険そうなところとか。
司馬懿様にお似合いです」
ずいっと司馬懿に陰玉を押し付ける。
「私の使っているのは、氷玉だ」
「えー、そうなんですか!?
意外です。
でも、敵を動けなくする辺りが、司馬懿様にぴったりかも。
動きが遅いし」
「何が言いたい?」
「足の速い軍師は、呉の燕ぐらいで十分ですよね」
は引きつった笑顔を浮かべながら、一生懸命フォローする。
「ふん」
「でも、氷玉かぁ。
……」
はポンと相づちを打つ。
「殿を倒せば手に入りますよね」
ボソッとはつぶやいた。
「返り討ちにされるのがせいぜいだ。
この間、新しい武器を手に入れられたからな」
「知ってます。
滅奏って言うんですよね。
これを聞いたときから思ってたんですけど、夫婦喧嘩のタネになりそうですよね。
甄姫様の武器が笛なのに、滅奏だなんて」
「用はそれだけか?」
「他の玉じゃないとダメですか?」
手の平で陰玉を転がしながら、は不安げに尋ねた。
「何故、それにこだわる」
「気に入ってるんです」
「変わった趣味だな」
「でも、陰玉を使う護衛武将は解雇されちゃうなら、諦めます」
未練たっぷりには言った。
「理由によっては、考慮しよう」
「ホントですか!?」
「ああ」
「この玉が大好きなんです!
だって、司馬懿様みたいなんです」
はにこにこと言った。
「くだらない理由だな」
「やっぱり、ダメですか……?」
「私は多忙だ。
いちいち護衛武将に構っていられるか。
好きにするが良い」
司馬懿は言い捨てると、竹簡を抱えて書斎を出た。
戦いを前に忙しいのは事実だった。
部屋を出た理由は本当に一つだったかと言うと、怪しいところだった。