「司馬懿様、トリック・オア・トリート!」
元気良くは書斎に入った。
お菓子が貰えると期待して。
が、しかし部屋の主は
「この仕事の山が見えないのだとしたのなら、その目は造り物なのだろうな」
と皮肉気に言い放った。
本日は10月31日。
ハロウィンは10月の末だ。
下半期に入ったばかりだったりする。
年末進行と仲良くするほどではないが、それなりに忙しい。
しかも軍事には『天高く馬肥ゆる秋』というフレーズがあったりする。
は自分の名前すら書けないどころか読めないほどの無知だった護衛武将だったわけだが、現在はそれなりの学がついた。
つまり『天高く馬肥ゆる秋』は『天気が良くなってご飯が美味しい秋ですね♪』という意味ではなく、『秋になると軍馬が駆けるほど肉付きが良くなって、北方の民族が攻め入ってくる』という意味だったりする。
曹魏の軍師が暇になるどころか、忙しくなります。っと言っているような嫌なフレーズである。
「お茶を淹れてこい。
できるだけさっぱりとした香りの薄いものにするように」
司馬懿は言った。
「了解です〜」
命令されることに慣れ切ったは項垂れながらも、きちんと一礼をして書斎を後にした。
珍しくお茶の種類に注文がつけられたことなど気が付くはずもなく。
護衛武将として雇われたくせに、戦場に立つよりも、お茶を汲んでいる時間の方が長かった過去の時代。
お給金は変わらないのだから、ラッキーと思いながら働いていた。
すでに護衛武将ではなくなったものの、大好きな人の役に立てることが一つでもあることは喜びだった。
慣れた手つきでお茶を淹れると、は書斎に戻った。
「どうぞ、司馬懿様」
音を立てないように気を付けて、は茶碗を司馬懿の利き手とは反対側に置いた。
「椅子を持ってこい」
「はーい」
はまったく疑問を持たずに書卓の傍に椅子を置く。
「座れ」
司馬懿はようやく竹簡に書きつけていた手を止めた。
そこで優は疑問符が頭に回り始めた。
「はい?」
失礼にもほどがあるだろう、という感じでは訊き返した。
「聞こえなかったのか?」
もうちょっとしたら見られるような太陽のような瞳が優を冷ややかに見た。
「しっかり、きっかり、聞こえました。
……えーと、何のご用でしょうか?」
ビクビクとしながらは尋ねた。
嫌な予感しかない。
そんなの心境をお構いなく、司馬懿は竹の籠を置いた。
小さいものの、作りの美しい籠で、には見知った匂いがした。
小麦粉やバターや砂糖が溶けて、焼かれたような。
焼き菓子そのものの匂いがしたのだ。
現金なもので、は目の前に置かれた竹の籠にちょうどよく手を伸ばせる位置にあった椅子に腰かけた。
「悪戯をされたら困るからな。
夕餉まで時間がある。
これぐらいがちょうど良いだろう」
司馬懿は言った。
「え? これ、私にですかっ?」
ちゃっかり自分のものだと言わんばかりに小さな竹の籠を抱えたは言った。
「茶もお前のだ。
かなり甘い菓子らしいから、口の中がギトギトになるだろう。
洗い流した方がいい」
司馬懿はそう言うと、竹簡が乾いたか白い指先で確認する。
「ありがとうございます。司馬懿様!
大切に食べますね♪」
は満面の笑みで言った。
竹の籠から漂ってくる香りは甘く、まだほのかにあたたかい。
作らせたばかり、ということが分かった。
甘いお菓子も嬉しかったけれども、大好きなやさしさはもっと嬉しかった。
10月31日は終わろうとしていたけれども、の心は満たされ続けた。