曹魏の城。
三國一のキレやすい軍師の司馬懿の唯一無二の護衛武将・は今日も元気に……元気が良すぎるぐらいに、神様だって気前が良すぎるぐらいに元気に生きていた。
むしろステータスを図太い、もとい暢気に、もとい明るくに全振りしてしまったのではないか、というぐらいに朗らかに生きている。
この北方の曹魏では感じられないほどの白い光の太陽のように。
ひとつ前に過ぎ去ってしまった季節のように。
生きていた。
お騒がせな護衛武将は上官の書斎に元気よく当たり前のように報告に行くのだった。
「司馬懿様、桂花が咲きました!」
は言った。
護衛武将で戦場だったら、よく通る声やハキハキした声と評価されそうだったが、城の中で、しかも司馬懿の書斎である。
他の誰かがやったら、有能な武将であっても、ひと睨みされるだろう。
その冷たい眼差しに黙るような展開だった。
が、しかし、司馬懿は書類作成を続けていた。
別段、が特別ではない。
長く続いている護衛武将という意味では特別ではあったが、それだけである。
突き詰めていってしまえば『慣れ』である。
言っても無駄なことをくりかえすほど、曹魏の軍師という役職は暇ではないということだ。
「そうみたいだな」
司馬懿はを見ることなく、面白くもなさそうに言った。
上官が面白そうにしているところを見るのは稀であるから、護衛武将のも慣れていた。
「よく分かりましたね。
司馬懿様、今日は一度も院子に出ていませんよね」
小柄な護衛武将は首を傾げた。
上官のスケジュールチェックなど、戦場に出ていない護衛武将の仕事ではないような気がするが、習い性である。
護衛対象がどこにいるか、最低限は把握しているものだった。
の場合は、本当に最低限だったが。
「あの花は香りが強い」
司馬懿は筆を止めることなく言った。
「良い匂いですよね。
お香を焚くよりも良い匂いです」
もにこやかに同意した。
季節外れの風雨に散らされることなく、咲いている桂花は美しかった。
『三香』に数えられて、『四清』に数えられて、『仙友』にも数えられている。
寒村出の読み書きすらできなかった学のなかった最低の平民であった少女でも馴染みのある花であった。
秋が深まったのだ、と花の香りで花を知る状態だった。
曹魏の城には数多の院子があり、桂花ももちろん林のように咲いていた。
「あ、窓を開けていたんですか?
遠くまで香るから分かりますよね。
私はずっと傍にいたから気がつかなかったんですが」
はそこまでしゃべって、しゃべりすぎたことに気がついた。
覆水盆に返らず。
話してしまったことは元には戻らない。
無駄すぎるぐらいに記憶力が良い上官が聞き流してくれるはずもなく、この後の展開は想像しなくたって理解できる。
「なるほど」
低い声が落ち着きを払って言った。
納得をしたわけでないだろう。
確認する気もないだろう。
「サボっていたわけじゃないんですよ!
ちょっと、日向ぼっこをしていただけです!!
すっごく良い天気だったから。
ほんの少しの時間の間だけです!」
は必死になって弁解をした。
ここでクビになるわけにはいかない。
には養わなければならない大切な家族がいるのだ。
給金をケチることなく、福利厚生もバッチリな職場とサヨナラするわけにはいかない。
人事権は目の前の青年が持っているのだ。
気が短い軍師は片っ端から護衛武将をクビにしまくった、という記録は他の武将だって、曹魏に属していない他国の武将だって、更新していないだろう。
そんな綱渡りの状態にはいるのだった。
「お前らしいと思っただけだ」
司馬懿は平然と言った。
どうやらの杞憂だったらしい。
「はあ、そうなんですか……」
腑に落ちないものを感じながら、とりあえず最悪のパターンにならなかったことをは安堵する。
「秋もたけなわだな。
そろそろ宴に引っ張り出されそうだ。
やれ花見だ、やれ月見だ、と」
ためいき混じりに司馬懿は言った。
「司馬懿様は宴があまり好きじゃないですよね〜。
お酒も強くなければ、無礼講になるみたいですから。
楽しくない、どころか時間の無駄とか思っちゃうんでしょうけど」
はほけほけと言った。
一緒に同席するメンバーも大変そうだ。
皇帝の曹丕と皇后の甄姫を除けば、序列は無駄に高すぎるぐらいに高い上に、名家の出身で、血筋だって良くて、武張った武将たちにとっては付き合いきれないぐらいに頭の作りが違うのだ。
機嫌を損ねたらアウト!
取り扱い注意の爆弾。
みたいな上官である。
「でも、よく司馬懿様は桂花が咲いたと分かったんですか?
窓も開いていないのに」
はまったく気にせずに、自分が気になったことだけを尋ねた。
護衛武将の習い性で入室した段階で、部屋に変化がないか確認をしたのだった。
この寒い季節である。
窓は閉まっている。
一ミクロンも変化がない。
押し開けたとしても、微妙に変化があるはずだった。
「気がつかないのか?」
司馬懿は筆を止めた。
どうやら書簡が書き終わったようだ。
硯の上に、筆を置く。
極上の石から削り出したと分かるように、まるで楽器のような音色が立つ。
「へ?」
は瞳を瞬かせる。
「お前から香っている。
部屋に入っきたら、桂花の香りがした。
だから院子の桂花が咲いたのだ、と気がついた」
司馬懿は言った。
「も、もしかして、水浴びしてきた方が良いですかっ!?」
は言った。
部屋に入った途端、香りに気がつく。
そこまで桂花の傍にいたわけではない。
だが、まあお年頃の乙女にとっては微妙にさせてくれるセリフだった。
クソ寒い中、水浴びするのは苦痛だが、お香を焚いたわけでもない名残で分かるほど、というのはあまりヨロシクない。
護衛武将が芳香剤の香りになって、どうする! という奴である。
目立ったら武将を護衛するどころか、標的になってしまう。
弓兵なのだから、接敵されたら待っているのは死のみである。
「嫌な香りだったら、入室した段階で命令している。
花を活けたと思えば気にならないだろう」
司馬懿は白く細い指先で竹簡の上をなぞっていく。
墨が乾いたのかチェックをしている動作だ、とは曹魏の城に来てから知った。
「私は花ですか?」
は不思議そうに尋ねた。
現状、仕事もせずに突っ立っているのだから、花瓶に活けられた花と変わりがないといえば変わりがない。
護衛武将としては及第点どこか、無価値だと宣言されたようなものだった。
「女性にとっては最上級の誉め言葉なのだろう?
先代も、殿も言っていたな。
私にとっては花は花でしかないが、詩人にとっては違うようだ」
司馬懿は琥珀にも似た瞳を優に向ける。
たっぷりと小柄な少女は考える。
護衛武将なんて職務に就いてしまったので、恋愛なんてものから遠くなってしまったわけだが、それなりには『女の子』ではある。
「言われて嫌な女性はいないですね」
は同意した。
ただしイケメンに限る、とか。
金持ちに限る、とか。
好意を持っている相手に限る、とか。
そんな現実的で打算的なことは口にはせずに、にこにこと頷いた。
まあ……少なくとも目の前の青年はが思いついたようなシンプルな条件をすべて網羅していることなど気がつかずに。