ことさら暑い夏だった。
大合唱するほどの蝉も沈黙するほどの酷暑だ。
風でも吹けばいいものの、それすら停滞していた。
白すぎる光が曹魏の宮城を照らす。
こんな時期にまともに働ける人間は少数だろう。
だが、しかし。
三國一顔色の悪い軍師は伺候する羽目になっていた。
体調不良、と言ったところで聞くような教え子ではない。
いつもよりも能力が落ちている人間に仕事をさせても効率が良いとは思えないが、自分が楽するためなら、どんなことでもするのが曹魏の帝王である曹丕だった。
人気のない回廊を小柄な少女がお盆を持って渡る。
薄い絹の白い裳裾から鮮やかな長春花色の糸靴が覗く。
暑さを感じさせない姿だった。
元より図太い……いや健気な司馬懿の元護衛武将・は、どんな季節であろうと、どんな場所でもあろうと最大限に楽しめる人物だった。
ましてや屋敷に置いていかれずに、城に連れてこられていれば、その顔は満面の笑みとなる。
通い慣れた道を歩き、は司馬懿の書斎に辿りつく。
部屋の主は、明らかに疲労していた。
どう見たって夏バテをしいて、涼しいところで横になっていたら? と普通の人間だったら思うほど、具合が悪そうだった。
もっとも、そんな親切なことを言う人間は曹魏において存在していなかった。
とて心配していないわけではなかったが、少女には選択肢というものがなかった。
命令に従うのに慣れ切っているためだ。
自発的に何かする、という精神はどこかへ置いてきてしまった。
護衛武将として、曹魏に仕官を決めた時になくなってしまったのだ。
自分の生命ぐらいしか売り払えるものしかなかった少女は、それすら使い道がなくなってしまったのだから、仕方がないことなのかもしれない。
そこで、が不幸かというと、また別であろう。
どんな状況下であっても幸せになれるタイプだった。
小柄な少女はひょこひょこと書類を決裁中の司馬懿にそっと近寄る。
夏用に短く切られた裳であっても、くるぶし丈なのだ。
踏みはしないが、邪魔にはなる。
当然、動作は繊細になる。
ある程度の教養が与えられた年頃の女性らしい仕草ではあった。
……見せかけに過ぎなかったが。
司馬懿は筆を止めて、を見た。
「司馬懿様、お茶です。
異国の淹れ方で、さっぱりするお茶って聞きました。
夏バテにもいいって」
はお盆に乗せてきたお茶を書卓の上に置く。
埃ひとつ舞わさせずに、音ひとつもなく。
白磁の器を置いた。
茶器は冷たく冷えており、スライスしたレモンが浮かんでいた。
司馬懿は無言で茶器に手を伸ばし、一口飲んだ。
じっとは観察する。
護衛武将時代からの習い性だった。
上官のわずかな表情からでも、機嫌を読み取るのは仕える者にとっては必須だった。
三國一キレやすい軍師に、その杞憂は必要なかったけれども。
「不味くはないな。
下手な薬よりも美味しいぐらいだ」
司馬懿は大きく息を吐きだした。
明らかに夏バテで倒れる一歩手前の表情だった。
「今年も夏バテなんて大変ですね」
はしみじみと言った。
それを司馬懿は見咎めた。
機嫌の悪さに拍車がかかったのだ。
もっとも曹魏において真昼の照明器具と愛玩動物のように可愛がられている少女は気にしたりはしなかった。
むしろニコニコ笑顔が増したぐらいだった。
「他人が調子を崩しているのに幸せそうだな」
5の倍数の追尾性のあるビームに追いかけ回されなくても、すべてのものを凍らせる氷玉でもって悪戯ぐらいなされそうな勢いの発言を司馬懿はした。
「だって、今年『も』ですよ♪
今年『は』じゃないんです。
それだけ司馬懿様と一緒にいるんだと思って」
は自分の気持ちを素直に伝えることでいっぱいだった。
初めてではない二人の夏だった。
しかも酷暑の今年は、城中に人気というものがなかった。
屋敷で眠る夜のように二人きりで、それでいて護衛武将時代のようにずっと傍にいられるのだ。
これ以上に幸せなことはなかった。
「来年も一緒に過ごしましょうね♪」
は未来への約束を取りつける。
一年ずつ増えていく想い出。
重ねた時だけ重たくなっていく想い。
最初は砂漠で見る楼閣のように頼りなかったものだった。
いつかは……終わりが来るのだと思っていた。
自分の鼓動が止まることによって。
目の前の大好きな人を守り切って生命が終わるのだと思っていた。
未来はいつだって違う形をしている。
そのことを実感して、は夢のように幸せの時間の中にいる。