冬の寒さを立ち去り、麗らかな春の兆し。
北にある曹魏であっても、それは変わりがない。
誰かさんが詩に詠んだように『春眠暁を覚えず』である。
小柄な少女もまた例外ではなかった。
正確には、例外にならずにはいられなかったのだ。
春らしい日差しを玻璃越しに受けていたは、微妙な空気の変化で目を覚ました。
それは妙齢の乙女としてはどうなのだろうか。
そんなことを突っ込まれそうな勢いで、飛び起きたのだ。
広すぎる寝台の上で、上体を起こしたは、大きな瞳をパチパチっとした。
それから異常事態に気がついた。
「璃さん、今、何時ですか!?」
は驚いた。
やたらと広い寝台の上で、一人で眠りこんでいたのだ。
それもすやすやと。
「おはようございます、さん」
司馬家の秀な侍女はにっこりと笑った。
「あ、おはようございます」
も居住まいをただし、挨拶をした。
「って、司馬懿様、もうお仕事ですよね!
うわぁあ、置いてかれちゃったんだ。
すっごくショックです〜」
しおしおと少女は項垂れた。
「旦那様でしたら、よく眠っているから、昼まで寝かしておくように、伝言を残していきましたわ」
「えー。一緒にお城に行きたかったのに。
それに司馬懿様に挨拶をしていません」
感じやすい瞳にはうっすらと涙が浮かぶ。
「さんが寝坊なんて珍しいですわね」
璃は言った。
「それは昨夜、司馬懿様がなかなか眠らさせてくれなかったからです。
半分ぐらいうつらうつらしていて、後半なんて記憶がないんですよー」
はためいき混じりに言った。
どこをどうとっても勘違いしそうな言葉を垂れ流したのだ。
さすがの璃も焦るような言動ではあった。
「殿が作った詩を覚え間違いしていることに気がつかされて、そこからは抜き打ちテストでした〜。
殿だけならまだしも、先代とか、殿の弟君の曹植様とかの詩もチェックされたんですよ。
無駄に司馬懿様って記憶力がいいと思いませんか?
いくら文化に親しむのが知識人とか、上流階級とかの習わしかもしれませんけど、一朝一夕で身についたら苦労しないと思うんですけど?」
はぶつくさと昨夜のことを思い出しながら言った。
正しくあれは拷問だった。
「まあ、そういうことですか。
……てっきり」
璃はおっとりと微笑んだ。
「てっきり、なんですか?」
は小首を傾げる。
「こちらのことですわ。
詩の一つでも、分からないままにしておくことはいけませんわ。
司馬家は学者の家系ですもの。
さんがいつかお産みになる子どもたちにも、きちんと教育をしなければなりません」
璃は言った。
爆弾発言がさらりと混ざっていたので、は途惑った。
「う、産むって……っ!」
その手の知識が薄い少女であっても、まあそれなりには理解していた。
それなり、だったが。
キャベツ畑で拾ってくるとか、絶滅危惧種のコウノトリが運んでくるわけじゃないぐらいは知っていた。
「あら、旦那様が側室を持たれたり、他所の女性に産ませてもよろしいのですか?
正妻らしい、立派な心構えでしょうが、ここは少々、我が儘になっても良いと思いますわよ」
璃は穏やかに微笑んだまま言う。
「子どもって神様からの授かりものじゃないんですか?
いつ産めるとか、男の子か、女の子かって神様が決めるって訊いたんですけど?
相応しい夫婦の下に、神様が授けてくれるって」
は知っている知識を話した。
間違っていはいないが、正しくもない知識だった。
仮にも何夜も閨を共にしている、というのに。
重要なところは理解していない。
そう他者には知らせるだけの知識量だった。
が、秀な侍女というものは、仕える主の意を汲み、決して出しゃばらないものである。
「そうですわね。
それでさんはお腹が空いていませんか?
お食事の準備はできています」
璃は言った。
「あ、本当ですか?
ありがとうございます。
……って、今日は3月14日ですよねっ!?」
は肝心なことを思い出した。
「ええ、円周率の日です」
璃は言った。
「じゃなくて、お菓子が貰える日です!」
は訂正した。
「ホワイトデーですわね。
そんなにさんはお返しを貰っていたのですか?」
璃は探りを入れた。
大量に義理チョコレートを配り、それ相応にお返しでお菓子を貰っていたのでは、主がわざと屋敷に置いていった理由が分かるというものだった。
「お返し?」
はきょとんする。
「お菓子が貰える日じゃないんですか?
皆さん、くださるからてっきりお菓子の日だと思っていたんですが。
……お返しってことは、私がそれなりの物を渡していたってことですよね。
まったくもって記憶にないんですが」
自然体で少女は答えた。
「具体的にお菓子は、どなたから、どんな物をいただいていたんですか?」
璃は冷静になって尋ねた。
「色んな人です。
もっと食べた方がいいって。
痩せすぎ、体力がないと護衛武将を勤められないって。
クッキーとか、チョコレートとか、キャラメルとか、マカロンとか、マドレーヌとか、カップケーキとか。
珍しいお菓子が貰えるから、楽しみにしていたんですけど」
少女はいつものように垂れ流した。
「クッキーまでは良いですわ。
それ以降のお菓子は、旦那様以外の男性からは受けってはいけません。
仮にも司馬家の未来の奥方なのですから」
璃はきっちりと釘を刺した。
主が毎年のように、それを目撃していたのなら、間違いないく、屋敷に閉じ込めておくだろう、というのが丸わかりの構図だった。
「へ?
なんでダメなんですか?
あんなに美味しいのにぃ〜」
まったくもって気にした風ではなく、は言った。
「今後は、旦那様におねだりをしてください。
きっとご用意してくださりますわよ。
現にこうして、手渡すように言いつけられた物がありますから」
璃はラッピングされたひと抱えるのある物を渡した。
「司馬懿様からですか?
嬉しいですっ!」
感情豊かな少女はニコニコと笑顔になって受け取る。
大きな箱の中身は、これまた大きな硝子の瓶だった。
中には色とりどりのキャンディが入っていた。
レモン、オレンジ、ブドウ、リンゴ、イチゴ。
本当にカラフルだった。
「こんなにたくさんあると、なかなか食べきれませんね♪
ちゃんとお礼をしなくちゃ。
司馬懿様が意地悪して置いていかれたのか、と思いましたが、きちんと考えてくれたんですね」
は幸福そうに笑った。
「では支度をして、お食事にいたしましょう。
それが終わったら、一緒に刺繍をいたしましょうね」
璃は微笑んだ。
「はい!
司馬懿様がいない分、たくさん刺繍をします。
璃さんが手伝ってくれるから、本当に助かっちゃっています♪」
大きな硝子瓶を大切そうに抱えて、は無邪気に言った。