のんびりと城の中を散策していたにもその噂は飛び込んできた。
弓兵として仕込まれた鋭敏な聴覚のためではない。
女性陣が安堵するような、あるいはがっかりするような声で高らかにさえずっていたのだ。
というか、その噂で持ち切りだった。
なので、当然の帰結としては回れ右をして、かつての上官の書斎に戻ったのだった。
もちろん、女装中だったので、走ることはできなかったけれども。
裳裾を気にしながら、青年の書斎に入った。
◇◆◇◆◇
「本気ですか!? 司馬懿様っ!!」
は開口一番で尋ねた。
昼下がりの穏やかな時間。
護衛武将時代だったら、お茶でも淹れながら、暇つぶしに突っ立ていただろう。
あるいは読み書きの練習として、与えられた本を読んでいたかもしれない。
かつての上官は、竹簡を書く手を止めて、顔を上げた。
「私は冗談は嫌いだ」
司馬懿はキッパリと言った。
この季節に見るような、寒さを晴らすような太陽のような瞳がを見る。
噂の内容は本当だったらしい。
まだ全然、が話していないらしいのに、推測ができたらしい。
さすがは曹魏が誇る軍師なだけある。
その智謀だけなら、三国一な気がする。
「ヴァレンタインデーのチョコを一つももらえなかったら、どうするつもりなんですかっ!?」
は声量の限りで叫んだ。
屋敷でやったら璃さんに絶対に怒られる。
司馬懿様のお嫁さんにふさわしくないって。
淑女らしくないって。
そんな調子では絶叫したのだ。
「どんな噂を聞いたのか知らないが、正確ではないな。
一つはもらえるだろう。
ちょうど良い機会だと思ったまでのこと。
いくらいらない、と断ったところで置いていく者が多かったからな。
嫌いだと公言している物を置いていく気が知れないな」
司馬懿はあっさりと言った。
完全に退路は断たれた。
は血の引く気を覚えた。
そう城中で今、持ち切りになっている噂話。
『司馬懿様は今年から本命からしかチョコレートを受け取らない、と言った』
それは事実だったらしい。
一応のところ、何故か婚約者であるが本命だということだろう。
「掃除の腕前はお墨付きをもらいましたが、料理の腕前はからっきしなんですよ!
本命チョコレートなんて難易度の高い上に、高級品が私に作れるわけないじゃないですか!?」
は訴えた。
「……手作りするつもりだったのか?」
「あれ? 違うんですか?
甄姫様だって毎年、殿に毒か媚薬でも盛るつもりで、せっせと作っているじゃないですか?
この曹魏で一番身分の高い皇后陛下が自ら台所にこもって作っているのだから、そんなものだと思っていたんですけど。
もしかして、本命チョコレートって市販品でもいいんですか?」
は小首をかしげる。
「首から上は飾り物か?
少しは考えないと馬鹿になるぞ。
本命チョコレートが全て手作りのはずがないであろう?
それが正しいのならば、何故、この時期、あれほどまでに売り場が賑やかなのだろうな」
司馬懿はためいき混じりに言った。
「そう言えばそうですね。
確かに材料以外にも、ちゃんと美味しそうで、ちょっと高いチョコレートが売っていますよね」
は納得した。
曹魏の城において真昼の照明器具と呼ばれる少女は、たっぷりと考える。
小人の考えることは休むに似たる。
が、そんなことをちもっとも、からっきしも、片鱗すら思いつくはずもなく熟考した後に
「じゃあ、市販品でいいんですか?」
はポツリと言った。
「期待はしていないからな」
青年はあっさりと言った。
「司馬懿様、手作りチョコレートを舐めていませんか?
溶かして、固めるだけだと思っていませんか?
きちんと計量しなきゃいけないとか、均等に刻まなきゃいけないとか、溶かす時の温度調節とか、材料を入れる順番とか、すごーく事細かく決まっているんですよ!
単純なヤツでも!」
は力説した。
間近で甄姫様の作った数々の手の込んだ手作りチョコレートを見ている身としては、あれは真似ができない。と思ったものだった。
しかも使う材料品は、豊かな曹魏においても高級品なのだ。
簡単には手に入らない。
少なくてもがその手の嗜好品を口にできたのは、甘い物嫌いの上官のおかげだったのだ。
お歳暮か、とりあえず記憶力だけは無駄に多いから義理でも贈っておかないと、後で何を言われるかわからない。
そんな女性陣の涙ぐましい努力だった。
……一応のところ、きちんと本命チョコレートもあったわけだが、上官は十把一絡げだったのだ。
食べずに捨てる。
そんな風景を護衛武将一年目にして目撃することになったのだ。
……ありえない。
と、当時も思ったし、今でも思っている。
食べられる物を食べずに捨てる。
ひもじい思いをして育った少女には耐えられなかった。
直接、病がちな母親に言ったことはなかった。
幼い弟や妹の前では言えなかった。
混ざりものの水であっても、泥水ではないだけもマシだと思っていた。
この時期に、あたたかい物を口にできれば御の字だった。
「それぐらいは理解してる。
お前の家事の熟練度から言って、当分は無理だと判断しただけだ。
手作りをしたいのなら、多少、形が歪だろうが、不味かろうが、食べてやってもかまわない」
尊大な態度で司馬懿は言い放った。
チョコレートをもらう立場の人間が言うような台詞ではない。
明らかに悪役だった。
が、しかしには選択権がなかった。
「つまり今から手作りチョコレートを勉強してくればいいんですか?」
は折れた。
「去年のように甄姫様の隣で手伝ってくればいいだろう?
材料を刻む手伝いでも、蒸篭の見張りでも。
例年通りに、それなりにマシな物ができるだろうな」
「それって……義理チョコと変わらないような?
本命チョコレートにはふさわしくない気がします」
は困惑する。
「ヴァレンタインデーに本命からチョコレートを受け取れば、板チョコ一枚であろうと本命チョコレートには変わらないであろう?」
司馬懿は言った。
「はい?」
は思わず訊き返してしまった。
失礼にもほどがある。
そんな調子だったが、護衛武将時代から失礼の数々をやらかしてきたのだ。
クビにされなかったのが不思議なぐらいに、くりかえしてきた。
しかも大好きで傍にいたいというだけの人に、かなり甘い言葉を言われたわけだったが、理解が追いつくはずがなかった。
「板チョコ一枚でも良いんですか!?」
は驚いた。
いくら結婚願望が薄いような、死と隣り合わせの護衛武将であっても、この時期になれば、それなりに話題なったのだ。
ましてや花嫁修業の一環にいるような侍女さんや女官さんであれば、もっと盛り上がっていた。
それは現在進行形なわけで。
いくら何でも『本命チョコレート』が板チョコ一枚で良いわけがない。
その程度の常識は持ち合わせていた。
「どうせ量は入らない。
甘い物はほどほどでかまわないからな。
変に凝った物よりは良いだろう」
司馬懿は目線を竹簡に戻した。
硯に置いたままの筆をとる。
「ちゃんと選んできます!
そんな物を『本命チョコレート』として渡せるわけないじゃないですか!?」
は断言した。
微妙な乙女心が言わせた言葉だった。
大好きな人にあげるチョコレートが板チョコなんて嫌だった。
胃の中におさまってしまえば同じかもしれないけれども。
去年みたいな義理チョコじゃなくて、ちゃんと本命チョコレートを選んで、店員んさんにラッピングをしてもらいたいのだ。
「選べるのか?」
青年は再び顔を上げた。
冬の太陽のように淡い色の瞳が意外そうに尋ねる。
「司馬懿様の好みぐらいちゃんと覚えています。
傍でずっと見てきましたから」
はハッキリと告げた。
「では2月14日を楽しみにしておこう」
司馬懿は言った。
まんまと罠に嵌められた少女は気がつかずに
「頑張ります!」
と元気よく返事をした。