「ハロウィン」23年版


 どっぷりも夜が暮れた頃。
 司馬懿はいつも通りに書斎で竹簡の山と格闘していた。
 たとえ、今日が十月の最終日であろうとも、平常通りに執務をこなしていた。
 曹魏とて、お祭り騒ぎが大好きな人間がいないわけでもない。
 だからといって仕事関連以外で、三國一キレやすい軍師の書斎へ訪れる者などいるはずもない。
 その例外が、にこやかな笑顔で扉を開いた。
 この季節に見られるはずもない公平でいて、平等でいて、無駄に明るい真夏の太陽ような少女は
「トリック・オア・トリート!
 司馬懿様、お菓子をください!」
 当然のことのように言った。
 残業中であり、しかも竹簡に書き物をしている最中であった司馬懿に堂々と言い放ったのだ。
 普通だったら五の倍数の禍々しい色の追尾型のビームに追いかけられるか、氷玉でもって凍りつかされるか、あるいは嫌味ったらしく文句の一つか、叱責が飛んでくるところだろう。
 は臆せずに、とことこと近づいて行き、書卓の上に小さな手を置いた。
 少女が曹魏の城において真昼の照明器具と呼ばれる存在であり、愛玩動物か何かと勘違いされているぐらい可愛がられている。
 それは理由の一つでしかすぎない。
 司馬懿は仕事をしていた手を止め、筆を硯の上に置いた。
 顔を上げてみれば、おとぎ話か、西方の文化か、物珍しい恰好をした婚約者がいた。
 黒い帽子を被り、露出度が高いけれども可愛らしさは損なわれていない、品性がぎりぎりで止められている黒いワンピースをまとったが大きなバスケットを片手に笑っていた。
 いわゆる『魔女』の仮装をしていた。
 おそらく美貌を誇る皇后に遊ばれた――いや、見立てられたものだろう。
 護衛武将時代の制服に比べても代わりがない程度の露出度だ。
 むしろ、ふわりと広がった風変りの膝丈のワンピースが良く似合っていた。
 着せ替え人形が欲しい、と皇后が駄々をこねていたのを司馬懿は知っていた。
 の細い腕にかけられたバスケットの中は戦利品であふれている。
 城中を自由に歩いている少女である。
 この姿でニコニコと笑顔で合言葉を言われたら、誰もが菓子を渡しただろう。
 金にがめついところがあり、現金な体質であることは知れ渡っている。
 寒村出であるという育ちのせいかの頭の中には『物をくれる人は良い人』という図式が成り立っている。
 曹魏の城で、それを知らぬ者はごく少数だ。
 来たばかりの護衛武将や下官ぐらいのものだろう。
 婚約者という立場の少女を介して司馬懿と誼になりたい、という分かりやすい構図ならば、さほど害はない。
 愛玩動物の程度に可愛がられているのも、今更だ。
 少女自身に目的があって、近づいてくる輩がいるのが最大の問題だった。
 そのことに一切、は気がついていない。
 大きな難点であった。
「ないな」
 司馬懿は冷淡に言った。
「え!?」
 は驚いたように目を見開いた。
 おそらく今まで、誰もが菓子をくれたのだろう。
 大きな黒い瞳がさらに大きくなる。
 まるで今宵の空のように無欠な黒い瞳だった。
「是非ともトリックの方をしてもらおうか?
 どんな悪戯をするつもりだったんだ?」
 司馬懿は口の端を歪めながら尋ねた。
「お菓子がもらえる、って信じて疑わなかったです」
 は分かりやすいぐらいに落胆をした。
「そう考えると思って、あえて用意をしていない」
 司馬懿は事実を告げた。
「本気ですか!?」
 の高く澄んだ声が引っくり返った。
 かなり動揺しているようだった。
 予想通りの展開に、司馬懿は満足を覚える。
 何事も筋書き通りに運ぶ、というものは面白いものだ。
 遊戯盤の駒を動かすのと同じだ。
「どんなたくらみや誤魔化しがあるというのだ?
 言ったからには期待を裏切らないで欲しいところだが」
 司馬懿は退路を断つように言った。
「三國一の軍師を驚かせるような悪戯なんて思いつくはずないじゃないですか!
 お、お菓子はいらないです。
 ちょっとお遊びに参加したかっただけで。
 司馬懿様にはすでに充分、もらっているから、これ以上はいらないです!」
 は何かを察したかのように訴える。
 じりっと後ずさろうとする。
 それを司馬懿は捕まえた。
 細い手首はやすやすと司馬懿の手の中におさまった。
 もともと距離が近かったのだ。
 掴んだ手首を引き寄せると、難なく少女は書卓の上に上半身が落ちた。
 反動で被っていた黒いつばの広い帽子が音もなく、床に伏せた。
 戦利品のバスケットまでぶちまかれた。
 書卓の上に、竹簡の上に、床に、散らばった。
 司馬懿は空いていた方の手での頬を撫でる。
 健康的に焼けた肌は、手に入れが行き届いた成果のように陶磁器のように滑らかだった。
 太陽のようなあたたかさのある体温は自分にはないものだ。
「司馬懿様ぁ!」
 これから起こる未来に気がついたのだろう。
 大きな瞳で懇願してくる。
「お祭り騒ぎに便乗をしたいのは、誰もが一緒だということだ」
 司馬懿はの耳元で声を落して、ささやいた。
 弓兵だったら必須のどんな差異でも聞き落さないように訓練された能力は衰えていないようだった。
 華奢な肩がビクッと反応した。
「これってトリックになるんですか?」
 堪えるようには尋ねてくる。
「たまには、そちら側からしてもらおうか?
 立派なトリックになるだろうな」
 司馬懿は声を落したまま告げる。
 潤んだ瞳が困惑したように司馬懿を見つめてくる。
「しないなら、こちら側からしてもかまわないが?
 どちらがいいか、選ばせてやろう」
 司馬懿は言った。
 選択肢がない、ことぐらい鈍い少女であっても気がついているのだろう。
 結果が同じことなのだ。
 むしろ、司馬懿がした方がにとって困る結末が待っていることぐらい経験済みだろう。
「分かりました。
 司馬懿様、目をつぶってください」
 観念したように少女は言った。
 司馬懿はの手首を開放してやる。
 書卓から上半身を起こした少女はとことこと司馬懿の傍までやってくると、細い腕を首筋に回す。
 微かに花のような香りがした。
 香を焚く趣味があるわけではない少女だ。
 おそらく院子で咲いている香りのある花を集めた物を小袋に入れて、持ち歩いているのだろう。
 変に飾り立てるよりも好ましい。
 をそっと抱き寄せる。
 司馬懿は静かに瞳を伏せた。
 やがて柔らかな感触が唇にした。
 ほんの一瞬だけ。
 掠める程度のささやかなくちづけだった。
 驚きには程遠いが、少女が自らしてきたのだ。
 今日のところは満足することにしておく。
 司馬懿は目を開いた。
「ちゃんとトリックになりましたか?」
 間近でが尋ねる。
 吐息がかかる距離にいることに気がついていないのだろう。
 長い睫毛に縁どられた真夜のような黒い瞳は不安で揺れていた。
 灯燭の中で見ても魅惑的な繊細さが宿っていた。
 無垢な少女はまったく知らないのだろう。
 司馬懿はの唇をそっとなぞる。
 少女は驚いて身を引こうとしたが、できなかったようだった。
 護衛武将と上官という関係がそこそこ長かったせいか、逆らうなど想像もしたこともないのだろう。
 上官に危害を加えてはいけない。
 どんな命令でも絶対に服従すること。
 徹底的に仕込まれているのだ。
 大きな黒い瞳が怯えを無言で訴えていた。
 これ以上、期待するのは酷なことだろう。
「屋敷に帰ったら、菓子が待っているだろう。
 璃が楽しみにしていたからな」
 司馬懿はを開放してやった。
「本当ですか!? 司馬懿様!
 ありがとうございます♪」
 腕の中から花のようにひらりと逃れると、少女は満開の笑顔を浮かべる。
 自分もつくづく甘くなったものだ、と思う。
 司馬懿は胸の内でためいきをついた。

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