生命を預ける

 
 ことりっとお茶が書卓の上に置かれた。
 書類整理をしていた司馬懿が顔を上げた。
 いつもだったら、退がる護衛武将が盆を抱えて立っていた。
 またどうでもいいことを考えているのだろう。
 司馬懿は硯の上に筆を置いた。
 硯は楽器のような音色を立てた。
 読み終ったばかりの竹簡を書卓の隅に押しやった。
 茶器を手にすると、司馬懿は護衛武将を見やる。
 黒い瞳を瞬かせてから、は口を開いた。
「司馬懿様。
 どうして私を首にしないのですか?」
 司馬懿唯一の護衛武将が言った。
「首にされたいのか?」
 青年は茶をすする。
 飲みやすい温度の茶は薫り高い味わいがした。
「そういうわけじゃないんですが。
 っていうか首にされたら一家路頭に迷うので、死ぬまで護衛武将でいさせていただきたいと願っている感じです」
 真昼の照明器具のように無駄に明るく、思っていることを垂れ流していた。
 裏表がない、というのは少女の長所だった。
 腹の中を探り合うのは、戦闘だけでいい。
「なら、護衛武将を続ければいい」
 青年は淡々と言った。
「司馬懿様のところでは、どんな官吏も長く続かない、と聞きました」
 は言った。
 余計なことを吹きこむ輩には困ったものだ。
 まあ、遅かれ早かれ少女も知ることになっただろうが、遅いにこしたことはない。
「それなのに私を雇っている利点は何かなぁ、と思っちゃったりしたんです」
「便利だからだ」
 司馬懿は即答した。
 理解が追いつかないのか、黒い瞳はパチパチと瞬く。
「一般的な護衛武将に茶を汲ませると不平を言う。
 本来の仕事がしたいと言う。
 お前はそんなことは言わない」
 司馬懿は茶器を書卓の上に戻す。
「だってお給金は変わらないじゃないですか!
 生命の心配をしないで、お金を貰えるってお得です。
 護衛武将のお給料ってけっこういいんですよ。
 お金持ちの司馬懿様に比べれば、はした金かもしれないですけど」
 金目的で護衛武将になった少女は力説する。
 拝金主義にも聞こえるが、寒村育ちならば当然だろう。
 金こそすべてだ。
 金のためなら、何でもする、と口にするだけある。
 たとえ、それが自分の生命につけられた値段であっても。
「不満がないなら良いだろう」
 司馬懿は言った。
「役立たずが唯一の護衛武将でいいのかな、と思って」
 は盆を握りしめる。
 よく日に焼けた働き者の手が震えていた。
 何を心配しているのだろうか。
「夏侯淵が弓の腕前を褒めていた」
「本当ですか?
 やっぱり妙才様の指導が良いからでしょうか。
 以前よりも、的を狙うのが楽になったんですよ!」
 嬉しそうには言った。
 人殺しの道に入っているのに、あっけらかんとしたものだった。
 戦場の中では生命のやりとりは一般的だった。
 年端も行かぬ少女が無邪気に口にするのを聞いて、楽しいものではなかった。
「それは頼もしいな」
 青年は、ためいきを喉で噛み殺す。
「司馬懿様は、他に護衛武将を確保しなくていいのですか?
 私、一人では心配ではないですか?」
 は尋ねる。
 どうやら『唯一の』という冠が重荷のようだった。
 くだらない、と司馬懿は思った。
 何もかもが面白味がなく、くだらない。
「最前線で戦うわけではないからな。
 それに戦場に行くのも稀だ。
 こうして書類整理をしている方が多い。
 護衛武将よりも、秀な女官の方が欲しいぐらいだ」
 司馬懿は溜まった竹簡を一瞥する。
 どれもこれも戦支度のものだ。
 また大きな戦が始まるのだろう。
 仮初の平穏が音もなく、崩れていく。
「お茶くみと書簡を届けるぐらいはできますよ!」
 は元気よく言った。
「そうだな。
 だから、お前を首にしないのだ」
「納得しました。
 これからも、頑張りまーす」
 は無駄に明るく笑った。


 司馬懿は言わなかったことがある。
 唯一の護衛武将にしている最大の理由。
 少女にだったら殺されてもいい。
 生命を預けられる。
 きっと一生、言わないだろう。

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