お茶事情


「お茶一つも淹れられないのか!」
 怒声が飛んだ。
 司馬懿の書斎からだった。
 廊下にいても聞こえるような声は珍しくないので、たまたま通りがかった官吏たちは無視をした。
 きっと新米の下官が機嫌を損ねるようなことをしたのだろう。
 と思われただろう。
 室内では新米の護衛武将が大きな瞳に涙をたたえていた。
「……だって、仕方じゃないですか!
 私の生まれた場所は貧しい村だったんです!
 お茶なんて高級な物、初めて見ました!」
 は涙目で言い返した。
 その様子に司馬懿は押し黙った。
 今にも大泣きしそうな護衛武将とその上官という二人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
 司馬懿はしばらく考えこみ
「甄姫様に習ってこい。
 手配する」
 視線は書類に戻す。
 怒られていた護衛武将は話が終わったことに安堵したようだった。
 切り替えの早い司馬懿は長く怒りを持続させない。
 意外な一面だと思われるだろうが。
 ただイラつく局面が多いだけだ。
「返事は?」
 地獄の底から出たような低い声に
「了解です!」
 護衛武将は軍でするような敬礼をした。

   ◇◆◇◆◇

「そんなことがあったから、司馬懿様は甄姫様のことが好きなんだと思っていました」
 日差しを浴びてのんびりと婚約者は言った。
 盛大な誤解に、司馬懿の眉根が寄る。
「口煩い教え子が文句もつけずに飲んでいた。
 それ以上でも、それ以下でもない」
 青年は深く息を吐き出した。
 竹簡の山から、一つ取ると書卓に広げた。
 戦がなくても仕事は待ったなしにやってくる。
「ですよねー」
 は、ほけほけと笑う。
「先代じゃあるまいし、人妻に手を出す趣味はないわ。
 そんなややこしいことは勘弁だ」
 想像するだけでも頭痛がする。
 司馬懿は手を止め、顔を上げた。
「殿の父君は人妻好きというより、美女が好きだっただけでは?
 美女はたいてい他人のものですし。
 そこまで熱烈に想われたら、なびくのも当然かも」
 小さな手に茶器を持ち、のほほんとは言った。
 空気が変わったことにも気がつかずに。
「ほう。それは一般論か?
 それともお前の一意見か?」
 司馬懿は無駄なことを問うた。
「どうしたんですか? 司馬懿様。
 顔色が悪いようですが……って、それはいつものことでしたね。
 でも、いつもよりも良くないような気が」
 は心配気に司馬懿を見つめる。
「金持ちの男なら誰でも良かったのだろう?
 殿から望まれたならそちらを選ぶのか?」
 つまらない嫉妬心が口に乗る。
「選ぶも何も、私のような身分の人間には、そもそも選択肢がないような気がしますけど。
 すべては司馬懿様のお心ひとつにかかっているような」
 寒村出の平民の少女は言った。
 全く婚約者らしからぬ返事だった。
 甘さも未練も一つもない。
 まるで司馬懿だけが夢中になっているようだった。
 それほど、あっさりとした言葉だった。
「私と殿、どちらが大切なのだ」
「難しいことを言わないでください。
 曹魏の主は殿なんですよ。
 私はその民で……」
 大きな黒い瞳は真剣だった。
 は物として扱われることに慣れすぎていていた。
 当然の結論だろう。
「司馬懿様が曹魏を見限るというのなら、ついていきますが」
 ケロッとは言った。
 謀反ともとられないということを軽々しく言った。
 まるで当たり前のことのように少女は言った。
 それが司馬懿には嬉しかった。
「冗談だ」
 青年は薄く口の端を上げる。
「あまり面白くない類の冗談ですよ」
 は淡く紅が乗せられた唇を尖らせた。
「あいにく女子供を喜ばせるような話はできない」
「そうですか?
 私は司馬懿様とお話ができて、とっても嬉しいですよ。
 知らなかったことを知ることができて、楽しいです」
 は暢気に言った。
 本当に自分を知らない婚約者だった。
 無邪気に司馬懿を嬉しがらせることを言ってのける。
「お茶のおかわりを貰えるか?」
 司馬懿は空になった茶器を書卓の上に置く。
「美味しかったですか?
 少しは上達したと思うんですけど」
 は立ち上がる。
 元気とやる気だけはある少女だった。
 文句もつけられないぐらいお茶を淹れるのが上手くなった。
「そうだな」
 司馬懿は柔らかく言った。
「本当ですか!
 これからも頑張りますね」
 は空になった茶器を手にすると、会釈をする。
 裳裾に気をつけながら、しずしずと退室した。
 身なりからして、護衛武将時代とは違うものだ。
 変われば変わるものだ。
 司馬懿は筆を取る。
 竹簡の山を片付けなければならない。
 それでも青年の頭の中には少女でいっぱいだった。
 出会いからして仕組まれたものだったが、それほど悪いものではないと思ってしまう。
 誰かのことを想うことなどあるとは思ったこともなかった。
 生命だけしか持っているものがない。
 何の価値もない。
 そんな少女のことを大切に感じる。
 冷血と言われている自分が。
 が戻ってくる前に平常心を保たねば。
 司馬懿は緩みがちな唇を引き結んだ。

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