静かな書斎にためいきが一つ落ちた。
ためいきを零したのは部屋の主である司馬懿だった。
竹簡の山の中、重すぎる空気だった。
それを聞きつけた少女が書卓を叩いた。
「司馬懿様!
幸せが逃げちゃいますよ!」
これ以上ないくらいに真剣に言う。
「息を吸って、吐いて……吐いちゃダメです!」
は慌てる。
「ためいきになっちゃいます。
は、これは深呼吸です。
逃げた幸せを吸いこんでください!」
なかなか難しいことを口にする。
「迷信だ」
青年は苦笑する。
山積みになった竹簡から、一つ手に取る。
カランカランと小気味の良い音がして、書卓に広がる。
「だって、司馬懿様。
あまり幸せそうに見えませんよ」
は言った。
「仕事中だからな。
誰でも、そうだろう」
戦果報告の竹簡を読み進めながら、青年は言った。
小競り合いと呼ぶのも可愛らしい戦いが続いている。
思ったよりも長引きそうだった。
先の見えない戦は士気が下降しやすくなる。
勝てるものも勝てなくなっていく。
「私は司馬懿様の護衛武将で幸せですよ!
毎日、楽しいです!」
少女の言葉に青年は顔を上げた。
黒い瞳は真実だけを映すようだった。
「そうか。幸せか」
それがどれだけ幸福なことか少女は知らないだろう。
司馬懿には手に入らないものだった。
不思議と羨ましいとは思わない。
「はい!
だから、司馬懿様にも幸せになってほしいです」
は熱く語る。
それはまるで真夏の太陽のようだった。
無駄に明るく、無駄に公平で、無駄に力強い。
「どうやって幸せにしてくれるんだ?」
特に期待はしていなかった。
ただ、気になるから続きをうながしただけだった。
「とりあえずお茶にしませんか?
甘い物を食べると嬉しくなりますよ」
「単純な思考だな」
青年は視線を竹簡に戻した。
教え子は秀に育ってくれたので、仕事の割り振りが絶妙だった。
今日中に目を通せる量の仕事を押しつけてくる。
「試してみてください。
少なくともためいきは出ませんよ。
新しい茶葉をいただいたんです。
それを淹れてきますね」
は楽しげに言う。
軽い足音が遠ざかっていく。
部屋は再び、静寂を取り戻した。
「幸せか……」
司馬懿はポツリと呟いた。
飢えは、どんなに甘い茶菓子でも満たされないだろう。
いざとなれば捨て駒にされる護衛武将である少女は、幸せだと笑う。
毎日が楽しいと言う。
ためいきが零れた。