何度目かの衝突だった。
意見が分かれるのも、理不尽な命令を下されるのも。
どこにも味方がいない事実を突きつけられるのも。
嫌になるぐらいくりかえした。
「愛想も何もあるか!
こちらから辞表を叩きつけてやる!!」
司馬懿は、書斎に戻るなり怒鳴った。
頭を下げ続けるのも、痛くない腹を探られるのも飽き飽きした。
好きで出仕したわけではない。
思ったよりも長居になったが『いつか』は辞すつもりだった。
好機なのだろう。
「司馬懿さま、お茶です」
茶器を載せたお盆を持って、少女がひょこひょこと書卓に近づいてくる。
「新しいお茶なんですよ。
香りは薄いんですけど味は良いって――」
は書卓に茶器を置く。
いつものように。
「ここで、私から離れたほうが得策だぞ」
青年は己の婚約者を見た。
小柄な少女は小首をかしげた。
「司馬懿さま、どこかに行かれるんですか?」
「尽くす忠義もなくなったからな」
青年は、吐き捨てるように言った。
軍を任されて指揮をするのは苦ではない。
遊技盤のコマを動かすのと同じだ。
勝利を求められるのも、当然だと理解している。
敗北とは己の死と同意義なのだから。
だが……それだけを求められ、残りは否定される。
我慢の限界だった。
「そこに司馬懿さまの幸せがありますか?」
盆を抱えた少女が尋ねる。
黒とは何物にも染まらない色。
混じりけのない瞳が、ひたっと司馬懿を見上げる。
「あるなら、ついていきます」
は告げた。
「……私は無位無官になるんだぞ。
お前の好きなお金もない」
青年は言った。
「それなら大丈夫ですよ♪
お金のほうが司馬懿さまのこと、好きだから、勝手に集まってきます」
ニッコリと笑いながら、は言う。
楽観的を通り過ぎて、出来の悪い冗談にしか聞えない。
地に足がつくように考えろと言ったところで無駄なのだろうが、緊迫感というものが欠如しすぎていた。
足りなさ過ぎる。
「他の国に仕えても良いですし、商売を始めるのも良いですよ!
それに……」
少女はふいに視線を床に落とす。
掃き清められた床はきれいなもので、塵一つ落ちていない。
清潔で、息苦しくなるほど、行き届いている。
「どこか。
戦なんて遠すぎて実感できないような田舎で……」
言葉にも影が落ちる。
曇り空の下で見つけた己の影のように淡い。
戦が実感できないような田舎。
青年の知らない世界だった。
詩人が詠う夢物語の中にしかないもの。
軍事を司る『司馬』の姓を持つ者が描く未来ではない。
「小さな村で私塾を開けばいいんですよ!
けっこう実入りが良いんですよ!
食い詰める、なんてありません」
少女は顔を上げる。
明るい調子の話とは裏腹に、真剣な面持ちだった。
「でも、そこに司馬懿さまの幸せはありますか?」
同じ問いをくりかえす。
「……」
青年は言葉に詰まった。
「司馬懿さまが幸せになれる場所なら、どこにだってついていきますよ」
「お前には、主体性というものがないのか?」
司馬懿は皮肉る。
「えー、ありますよー。
ちゃんと、自分の意志ぐらい持ってます!」
は口を尖らせる。
「世界で一番、司馬懿さまを幸せにするんです!」
少女は高らかに宣言した。
それを耳にした青年は、目を見開き……それから苦笑した。
「そういうのが、主体性がないというのだ」
馬鹿馬鹿しいにもほどがある話を聴かされたというのに、不思議と気分が良かった。
司馬懿は大きく息を吐き出した。
安堵か、それとも不満か。
どちらとも取れないためいきをつき、椅子に座った。
書卓には竹簡が山のように積みあがっている。
硯の中には、たっぷりと磨られた墨。
行儀良く並べられた筆。
すこし冷めたお茶。
青年が、いつも通りに仕事をするのを疑っていない物たち。
「私の意志ですよー」
少女が言う。
準備を整えて、司馬懿の帰りを待っていた人物が言う。
青年は書卓の端でたたずむ水色の弾棊のコマを見る。
遊戯に使うには役に立たない。
強く弾いた途端、砕け散るような硬度しか持たない石。
「世界中が敵に回っても、私は司馬懿さまの味方です!」
かつて聴いた言葉。
青年を抜き差しならない状況まで、追い込んだ言葉だ。
絶大な信頼。見返りを求めない情愛。
鎖のように大地に縛りつける。
もがけばもがくほど、食いこむくびきのように。
「だから、私はどこにだってついていきます」
無邪気な少女に悪意はない。
ただ席に着くことをうながすだけだ。
生命というコマで続ける陣取り遊技の盤の前に、司馬懿を座らせる。
「計画は変更だ。
ここで折れるのは癪にさわるからな」
青年は言った。
遊技盤に載らないコマ。
それが司馬懿の味方。
だからこそ、価値があるのだと。
知って、なお思う。
出逢えたことも、失わずにすんだことも。
奇跡、だと。